昔、子どもの時に、こんなお話を聞いたことがあります。
ある人が天国と地獄とはどんな所か知りたいと思って、案内人に頼むと、まず地獄へ案内してくれた。
しかし、そこには想像していた針山地獄も血の池も無くて、意外にも、大きくて立派なレストランがあって、テーブルを囲む人たちの前には、すごいごちそうが並んでいた。
ところが、そこにある箸は1メートルもあるような長い物。
だから、みんながその箸で自分の口にごちそうを運ぼうと思っても、どうしても口に入れることができない。
みんなはごちそうを目の前にしながら、募る空腹にいら立って、怒鳴り合ったり、やせ細って不機嫌な様子をしていた。
今度は天国へ行ってみた。
すると、天国でも全く同じように、すごいごちそうと長い箸が並べてあった。
ところが、天国の人々はその箸で自分の口に入れようとするのではなく、目の前にいる相手の口に入れ合っていた。
人々はみんな満ち足りていて、楽しそうで幸せな表情をしていた。
このお話は、皆さんもおそらく聞いたことがあると思いますが、深い真理ですね。
目の前にある世界は同じでも、それを天国にするか地獄にするかは、人の心にある。
人の心の在り方が、この世の天国か地獄かを決めている。
自分の欲望ばかりにとらわれるのではなく、人をたすける心で通るところに、この世がそのまま極楽になってくるんだ、ということだと思います。
人たすけたら
おやさまは、
人たすけたらわがみたすかる
『おふでさき』 3号 47
とお教えくださいました。
人は、自分の幸せばかりを願っていても、決して本当に幸せにはなれない。
どんなささいなことでもいいから、少しでも人の役に立ったとき、人の力になれたとき、人に喜んでもらえたとき、本当に心の底から幸せな気持ちになれるのだと思います。
人間はそういうふうにできている。
親神様(おやがみさま)によって造られた時に、そういうふうに造られたのだと思います。
だから、人は誰かの力になろうとするとき、誰かの幸せを願うとき、親神様の思召(おぼしめし)にかなう。
そうして親神様の思召にかなうことによって、自分もまた親神様によってたすけていただけるのです。
昔、父が入院していた時、手術後の容体が思わしくなく、点滴もなかなか入らず、水ものどを越さんというて苦しんでいたことがありました。
そんな時、同じ病院に部内の教会長さんが入院してきました。
そして、いよいよ明日手術をするという時、父は自分の命も危ないという中、車いすでおたすけに向かいました。
そして、その翌日から父もおかゆが食べられるようになり、グングン回復して無事に退院できたのです。
お互いに思い合う、たすけ合う存在として人は造られた。
それが人間の素晴らしさであり、ありがたさなのだと思います。
しかし、それが真理だ、理想だと分かってはいても、そうなりたいと願っても、実際にどうしたら人をたすけられるのか分からない。
そこで迷い悩むことが結構多いんじゃないでしょうか。
相手の身になるということ
そこで、おやさまは、どうしたら誰でも人をたすけられるようになるのかという手本を、自ら歩んで示されたのだと思うんです。
そのおやさまがまずここから始めなさい、と自ら歩まれた道はどういう道であったか、と言いますと、
貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』 4 一粒万倍にして返す
とおっしゃって、ひたすら貧に落ち切っていかれました。
それは、財産だけではなく、名誉や地位や見栄・体裁といった、あらゆる自分の周りにへばりついている欲を捨てて、裸になって、難儀な人たちの身になっていく、ということでした。
一切の我欲を捨てて、人々の身になっていく。
私というものを離れて、相手の身になっていく。
ここから始められました。
それも一気にどん底に落ちていかれたのではありません。
15年という長い年月をかけて貧に落ち切っていかれました。
この、だんだんと欲を離れて、人の身になろうとすることこそ、誰もが始めることのできる、人だすけの第一歩だと思うのです。
おやさまのひながたはそこから始まったのです。
私には娘が一人いるのですが、その娘が生まれたての赤ん坊の時のことです。
娘をお風呂に入れてやらなければいけません。
しかし、初めての子どもで何も知らない新米パパにとっては、いろいろ教えてもらっても、もう一つ要領が分からない。
こういうふうに首を支えてとか言われても、うまくできない。
だから、娘も湯船に入れられてても気持ちが悪いんでしょうね、大声で泣き叫ぶんです。
毎晩毎晩、ギャーッと、もうこの世の終わりかと思うぐらいの声で泣きわめく。
で、私も困って、子育ての先輩にどうしたら子どもが泣かなくなるか尋ねては、タオルをつかませるとか、いろいろな方法を次から次へと試してみた。
しかし、どうしても泣きやまない。
そして、万策尽きて「もうだめだー」と思った時、今までいろいろ試してきた方法を一切忘れて、ただ「こいつの身になったろう」と思ったんです。
そしたらそう思ったまさにその瞬間、ピタッと泣きやんだ。
そしてそれから二度と泣くことはありませんでした。
「相手の身になろうと思っただけで、こんなにも変わるのか!」
その子が大きくなって言葉がしゃべれるようになってからも、一緒にお風呂に入って背中を洗ってやったりするときに、「身になる」気持ちを込めて洗ってやると、「ああ、気持ちいい」と言ったりすることがよくありました。
これはもしかすると、単に私が非常に不器用な父親であった、という話に過ぎないのかもしれませんが、私自身は、神様が「相手の身になる」ことの大切さを教えてくれたのだと思っています。
まず第一に大切なのは、理屈や方法じゃなく、相手の身になること。
全身全霊を挙げて、相手の身になることだ、ということを学ばせていただきました。
つづく
※『Happist』2012年11月号掲載