嫌で嫌で仕方がなかった教会生活
私は教会の長男として生まれましたが、狭くてボロボロな教会での貧乏生活や、朝夕のおつとめやお道の行事に、ほぼ強制的に参加しなければならないことが、嫌で嫌で仕方がありませんでした。
しかし、20歳の時に大阪教区の学生会のおかげで、一生このお道を信仰しようと心を定めました。
ところが、このお道を信仰するとはどういうことなのかと悩みました。
教会に生まれ育ち、小さい頃から毎日のようにおつとめをし、おてふりも鳴り物も一通りすることができる。大教会の行事や本部の行事にも参加している。天理の高校を卒業しているので、八つのほこりやかしもの・かりものなど、基本的な教えは何となくだが理解している。おさづけの理も頂いてようぼくになっている。
しかし、はっきり言って自分は信仰しているつもりはなかった。
それでは、お道を信仰したいと思った私は、何をすれば信仰できるのか。
何が足りないのかを考え、今までの自分をふり返った時に、今までは信仰的な空間や時間の中に身を置いていただけで、“自ら求める”ということと“教えを実践する”ということが足りてなかったことに気付きました。
本物の信仰者になりたくて
そこで、この教えだけは実践しています! と胸を張って言える、本物の信仰者になりたいと思いました。しかし、改めてお道の教えを見た時に、たんのうや八つのほこり、そして、いんねんなど、目に見えない心の状態や使い方についての教えがほとんどだと思いました。
これでは、できているのかできていないのか分からないので、『天理教教典』や『稿本天理教教祖伝逸話篇』を読みあさりました。
すると、これだ! と思える教えがありました。それは「朝起き」と「おつとめ」です。『稿本天理教教祖伝逸話篇』の111「朝、起こされるのと」に「朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで」と書かれています。
朝、人に起こされるのではなく、自分で起きる。そして、一日を朝づとめから始める。この教えならできているかできていないかは一目瞭然だと思い、この「朝起き」と「おつとめ」を生涯実行しようと心に定めました。
最初は起きなければいけないと、自分にムチ打って起きていましたが、起きようと思うようになり、今では、大げさではなく、朝に目が覚めることに心から感謝して朝づとめを勤めています。
信仰は自ら求めるもの。そして、教えは聴くためのものではなく、実践するもの。実践の先に心が澄み、心が澄んだ人に陽気ぐらしが待っていると思います。
ところで、あなたは信仰していますか?