平川寛行「病の元は心から」

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病の元は心から

イデデデデ

高校2年生の頃、突然の腹痛が朝の電車の通学時に決まって始まる。私の持病である。

通学途中で同じ年代の高校生に悟られないように必死に痛さを押し殺し、顔を歪ませて電車に乗っている。別にトイレに行きたいわけではない。途中下車をすれば学校に遅刻してしまう。

学校の最寄駅に着くと、もうダウン寸前のボクサーのようになっていることがしばしばあった。医者に診てもらっても原因不明だったが、学校の授業中もいつ腹痛が襲うか常に心配だった。

教会長だった父はよく心配して、ボソリと「俺は昔、胃潰瘍と十二指腸潰瘍で手術をしたことがある。おまえもそうならないといいなぁ」と話してくれた。母は塩を温めてくれたものを布に包みおなかに当ててくれたり、ホカロンをよく持たせてくれたりした。

親心いっぱいのお諭し

そんなある日、父は腹痛で苦しむ私におさづけを取り次いでくれた。大きな手でおなかいっぱいになでてくれて、おさづけが終わると、父は「人を見下げてはいけないよ。身(実)を下げることになるからね。どんな人も平等に接することが大事だよ」と諭してくれた。

そして、母は「神様のことを一つ定めさせてもらうの。そうすると、きっと何かが見えてくるかもね」と、優しく話してくれた。

この身体は、親神様(おやがみさま)からのかりものであって、心だけが自分のものである。ただ、暗記しただけのフレーズだったけれど、病んでみて初めて、この言葉がズシーンと心に響いた。

どうしようもない腹痛があるたびに、心から「親神様たすけてください。何でもしますからたすけてください」と、御供(ごく)を握っておなかをさすった。

教祖(おやさま)のお話は好きだったが、正直、天理教の会活動が好きになれなかった。腹痛があると、親から勧められる学生会活動や、少年会活動に勇気を出して行かせてもらう心定めをすると、不思議と痛みが治まったりもした。

また、今まで苦手だなと思った人にも見かけや雰囲気で判断せず、自分から分け隔てなく声を掛けるようにした。しばらくすると、学校の休み時間に、どちらかというとあまり友達が多くない人たちが自分の周りに集まるようになった。

今までの自分の価値観とは大きく相手が違っていたので、いろいろと大切なことを学ばせくれた。生まれてきた環境が違うし、趣味や性格も違う。自分が正しいと思う基準も違う人たちだった。

親神様は仲良くたすけ合うことを教えてくださった。自分の意見を先に立てるのではなく、相手の言い分に耳を貸すことを今までよりも少しだけ多くすると、自然と仲間も増えて、高校生活がそれまでよりも楽しく過ごすことができた。学校生活が楽しくなると、突然の腹痛が少しずつ減ってきた。

お道では「病は神の手引きや」と教えていただく。病気や災難、トラブルを通じて親神様からの温かいメッセージを感じて行動に移すか、それとも成ってきたことだけを恨むか、大きく運命が分かれるポイントだと思う。

自分にとって都合の良いことはあまり気に留めないが、都合の悪いことに人は悩むもの。悩んだ時にどこに視線を合わせるかである。

視点はどこにある?

大学時代、スノボーが日本ではやり始めた頃で、私もスノボーにはまっていた。好き過ぎてニュージーランドに行き、スノボー漬けだった頃、プロ選手が25メートルもある大きなジャンプ台を、助走をつけて回転しながら飛んでいく。

そこは地元では「ジーザスジャンプ台」と呼ばれていて、あまりにも大きなジャンプができるので「神のジャンプ台」としてあがめられていた場所だった。私も飛んだことがあるが、初めて「死ぬかも」と思った。

その時、プロ選手から言われたことが今でも忘れられない。「目は曲がる方向に進み、目の方向に首が回り、首の方向に従って身体が傾く。どこを見たかで大きく変わるんだ」と教えてくれた。

人生でも同じことが言えると思う。私は転んでばかりだが、心をどこに置いて、どこに向かおうと見ているかで人生の方向性が決まる。人生の道しるべをその当時の言葉で分かりやすく教えてくださったのが教祖である。


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