第6回 よく

もくじ

「よく」のほこりとは

前回に引き続き「よく」のほこりについて考えたいと思います。
「よく」のほこりとは、具体的には、どんな心遣いのことを言われているのでしょうか。教理書には、次のように説明されています。

人より多く身につけたい、取れるだけ取りたいという心。数量をごまかし、人を欺して利をかすめ、あるいは盗み、取り込むなど、何によらず人の物をただわが身につけるのは強欲。また、色情に溺れるのは色欲。

『ようぼくハンドブック』 49ページ

これを聞いて、皆さんはどう思いますか。
これを全部していたら犯罪者だ。
自分はそこまでひどくはない、と思いませんか。

自分自身に心当たりがなければ、どこか違う世界のことのように考えてしまいがちですが、「えっ、あの人が?」というような人が実は犯罪に手を染めていたというショッキングな事件が起こるような世の中です。
人生、何があるかわかりませんから決して他人事ではありません。

お道の先人が伝え残すお話に、

嘘に追従これ嫌い、よくにこうまん大嫌い

『正文遺韻抄』 184ページ

と聞かせていただきます。この意味は、人間には、「嘘」と「追従」のない人はいない。
また、「よく」と「こうまん」のない人もいない。
これらは、誰でも多いか少ないかで心に持っていて行いに現れるものあるので、日々特に注意しなければならないことをお教えくださっています。

心当たりがなくても…

ですから、今の自分に心当たりはなくとも親神様(おやがみさま)からお教えいただくことを「戒め」として、そういう道に陥らないように日ごろから気を付けることが大切なのです。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』に「一三〇 小さな埃は」という題のおよそ次のようなお話が掲載されています。

明治16年ごろのことです。
高井直吉というおやさまのお屋敷に住み込んでいた高弟の先生が、おやさまから命じられて病人のおたすけに出かけました。
おたすけ先で、高井先生が、み教え通りに、人間の心には八つのほこりがあって、そのほこりが積もり重なると身上の患いとなるので、自分の過去を振り返ってほこりを払うようにと諭しました。

すると先方の人は、過去に何か悪いことをしたから病気になったのだと責められたように受け取って気分を害したのでしょうか。
「わしは、いまだかつて悪いことをした覚えはないのや」と逆に高井先生に食ってかかりました。

返答に困ってしまった高井先生は、慌てておやさまのもとへ戻ってどう説明したらよいか伺いました。
するとおやさまは、次のようにお教えくださいました。

「それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は目につかんよってに、放って置くやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。その話をしておやり。」

つまり、新しい家で、埃が外から中に入り込まないように密閉してあっても、10日間も20日間も掃除をしなかったら、畳の上に埃が積もっているものである。
人間も同様で、生活していて心にほこりの積もらない人などいないということを教えられています。

そしてさらにおやさまは、鏡の汚れを例えにされて、目に付くような大きな埃ばかりを気を付けて、目に見えないような小さな埃を見逃して掃除しないで放っておくと、やがてその埃が沁み込んでしまって、いずれは拭いても取れないような頑固な汚れになってしまう、だから小さな埃でも小まめに掃除することが大切だと教えられたのでした。

ちなみに、鏡の表面はガラスなので、埃が沁み込んでシミになるのはおかしいと思う人もいると思います。
実は、昔は現代のような技術がなかったので、今のようなガラス板を貼った鏡ではなく、金属の平面をピカピカに磨き上げたものを鏡にしていました。
だから小さな埃が表面に沁み込むこともあるわけです。

高井先生は、再び先方へ出向いてその話をすると、その人は納得してくださって、まもなくその病気は治ったそうです。

小さな喜びと感謝に目を向ける

では、小さなほこりとは、どんな心遣いのことでしょうか。
小さなほこりは目に見えなくて、自分ではなかなか気付くのが難しいように思いますが、私は、ある体験を通してその目に見えない小さなほこりの正体に気付くことができました。

それは私が若いころに、ある人のおたすけ祈願のために1カ月間の断食を心定めして実行した時のことでした。
断食と言っても、本当に1カ月も飲まず食わずでは死んでしまいますので、朝、日の出から日没まで何も口にしないという断食をしました。

断食を始めてから十日目がたったころから、身体に力が入らなくなってフラフラし始めました。
それでも意地になって続けました。
二十日目が過ぎたころにとうとう風邪を引いてしまいました。
身体が衰弱していたのだと思います。
それでも挫けずに1カ月を完遂しました。
その間に祈願していた件は、奇跡的なご守護を戴いていましたが、親神様との約束ですから、身も心もボロボロになりながらでもなんとか最後までやりきりました。

断食が終わった翌日、久しぶりに食べた朝食の時のことです。
私は、最初にコップに注いだ水を口に入れました。
その瞬間、思わず「うまい」と声をあげてしまいました。
何でもないただの水道水ですが、これまで飲んだ、どんな飲み物よりもうまいと思いました。
次にご飯を口にしました。
これまた、ただの白ご飯がとてつもなくおいしいと思いました。
食べたものがそのまま身体に浸みわたっていって、身体が声をあげてうまい、うまいと喜んでいるような感覚がしました。

そして、しみじみと考えたのです。
「自分は、これまでこんなにおいしくお水やご飯を食べたことがあっただろうか」
と。

今までは、舌の味覚でおいしいとか、おいしくないとか感じて好き嫌いをして食べ物を選り分けていたけれども、実はそれは表面的なことで、本当のおいしさとは味覚で味わうものではなくて身体で味わうものなのだということに気付かされました。
そして、これが人間が本来持っている生きる喜びの原点ではないかということに開眼したのでした。

それを思うと、私は今まで随分ぜいたくを言って、感謝と喜びの薄い生活をしていたと思い反省をしました。

人の欲望には際限がありません。
一時は満足しても、慣れて当たり前になってしまえば、さらなる満足を求めます。
そしてその欲求が満たされなければ、それがストレスになり自分は不幸せだと思い込んでしまうのだと思います。

私は、この体験から、親神様は、人間にいつも充分に恵みを下さっている。
それが満ち足り過ぎていて、分からなくなっていたのだと気付きました。
そして、すでに満ち足りていることを喜ばずに、なお不足に思う心、それが小さな「よく」のほこりの正体だと自覚することができました。

おやさまは、

世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。

『稿本天理教教祖伝』 40ページ

とお聞かせくださいます。

一杯の水、一口の水から喜べることを教えられたのが私たちのおやさまの教えです。
日常にあふれている小さな喜びと感謝に目を向けることが大切なのです。

つづく

※『Happist』2009年11月号掲載

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