『天理教教典』第六章「てびき」は、「心定め」で締めくくられています。
身の上に現れてくる「てびき」の神意を悟る中で、人は生まれかわることができます。
ここに、かたくなな心は開かれ、親神の温かい光を浴びて、心はよみがえる。そして、ひたすら、篤い親心に添いきる心が定る。かくて、真実に心が定れば、親神は、すぐとその心を受け取り、どんな自由自在の理も見せられる。
『天理教教典』 61ページ
と教えられます。
前回は「自覚的な信仰」について述べましたが、その契機となり、今も大切にしている出来事があります。
それは学生時代のことでした。
心定めの要点
青年会ひのきしん隊に入隊し、1カ月間、「ひのきしん」を勤めることになりました。
全国から参加した青年会員と共に、「おやさとやかた」の普請をはじめ、さまざまなひのきしんを勤めるのです。
ひのきしんが始まって間なしのこと。
私はある信者詰所の普請現場で、高さ5メートルほどの足場板から誤って転落してしまいました。
「アイタターッ!」
幸い大事には至りませんでしたが、着地した際に右足首を痛打してしまいました。
起き上がることもできず、抱きかかえられて、そのまま病院に直行することに。
しっかりとテーピングをされ、「2週間は絶対安静です」との診断。
松葉づえで宿舎に帰ってきました。
足の痛みもさることながら、私には参加者の世話係という役目があり、それどころではなくなったことがショックでした。
一緒にひのきしんができなければ、参加した意味がありません。
その夜、見かねた責任者の方が心配し、「おさづけ」を取り次いでくださり、ともかく休みました。
ところが、翌朝目が覚めると、あれだけ痛かった右足から痛みが消えているのです。
「エ、エーッ! うそやろ、痛くない! 何で!?」
そうです。
何ともないのです。
痛打したはずの右足をたたきましたが何ともない。
実に鮮やかな、怖いほどのご守護でした。
「アレーッ? 確かに昨日は痛かったんだけど…」
その日は山を開墾するひのきしんに恐る恐る出ましたが、本当に何ともなく、以後無事に勤めることができました。
“無我夢中!”
そんな私の姿に「ご守護が歩いている」と言われたのもその通りだと思いました。
なぜ、こうした不思議を見ることができたのでしょうか?
実は、おさづけを取り次いでもらう際に「心定めをしなさい」と言われたのです。
では、どんな心定めをしたかと言うと、「できても、できなくても、この1カ月は、松葉づえを突いてでも世話係を勤める」というものでした。
結果、鮮やかなご守護でした。
私自身は、今でも「心定め」の要点を教えていただいたのだと信じています。
「おふでさき」で、
いまゝでハとんな心でいたるとも
『おふでさき』 17号 14
いちやのまにも心いれかゑ
しんぢつに心すきやかいれかゑば
同 17号 15
それも月日がすぐにうけとる
と教えられる通りです。
私はこれが「自覚的な信仰」の元一日(もといちにち)と決めています。
お道はすばらしい
今回はもう一つ、私の経験を書きます。
それは、教祖百年祭を目前にして布教に出ていた時のことです。
戸別訪問で訪ねた家で、下半身まひの障害を抱える男性と出会い、私はその方の「おたすけ」に掛かっていました。
一人暮らしの彼は、自力歩行も家の中の移動もできません。
精神的にも不安定だったのでしょう、隣近所の付き合いも自ら絶ち、孤立無縁の生活をしていました。
しかも、彼は私が訪ねるまでの5年間、自ら外に出たこともなかったのです。
部屋の中は5年間の生活のごみが堆積し、すさまじい臭いを放っていました。
私は、「福祉社会と言うけれど、現実には社会の片隅でこんな生活をしている人がいる」とショックを受けました。
「市役所に掛け合わねば」と足を運びましたが、逆に「市としては扱いかねている」との返事。
「だったら、私が! おたすけだ! ひのきしんだ!」と、部屋のごみ出しから、掃除、洗濯、食事の準備とできる限りのことを勤めました。
近くの温水プールで一緒に歩く練習をした時には、「歩ける! 歩ける!」と涙ながらに喜んでくださいました。
毎日足を運ぶうちに、少しずつ打ち解け、心を許してくれたのでしょう。
彼は「髙見さん、天理教の人はみんな親切ですね。今までも、困っているだろうと、いろんな人が訪ねて来た。でも、僕はこんな性格だから…」と言いました。
「みんなって言うと?」
そういえば、小さな庭には歩行訓練用のバーが壁に打ち付けてありました。
また、彼には不自然なコスモスの花も咲いていました
「もしかして、これは天理教の人が…?」
彼は「みんな訪ねて来た天理教の布教師さんがしてくれた。一人では寂しいだろうと花を植えてくれる人もいた」と話してくれました。
お世話をしていたのは、みんなお道の人たちだったのです。
彼の話を聞いた時、私は身震いがしました。
「この広い世の中の片隅で、ただ黙々と人のたすかりのために、お道の人は努めている。自分もその信仰につながる一人だ」
心から誇らしく思えました。
その時です、「この道を通ろう」と心を決めたのは。
つづく
※『Happist』2013年6月号より再掲載