『天理教教典』第七章は「かしもの・かりもの」のお話です。
にんけんハみな/\神のかしものや
『おふでさき』 3号 41
なんとをもふてつこているやら
とあるように、私たちの身体は親神様(おやがみさま)からお貸しいただいているものであり、その守護によって生かされているという教えです。
『天理教教典』には、
身上のさわりとなれば、発熱に苦しみ、悪寒に悩み、又、畳一枚が己が住む世界となつて、手足一つさえ自由かなわぬようにもなる。ここをよく思案すれば、身上は親神のかしものである、という理が、自と胸に治る。
『天理教教典』 65ページ
とあります。
「かしもの・かりもの」は身上を通して自覚することができると言われます。
自由自在ということ
ところで私は、この「畳一枚が己が住む世界」という言葉に深く感じる思い出があります。
これも布教に出ていた時のことです。
戸別訪問で訪ねたあるご婦人から、「天理教は人をたすけるんでしょう。だったら息子をたすけて」との一言で、家に招かれることになりました。
その彼は、当時25歳の青年でしたが、重度の脳性まひがあり、一人ベッドに横たわっていました。
見れば小学校低学年児ほどの体格で、生まれてから自力で起き上がったこともなく、生活には全面的な介護が必要でした。
まさに「畳一枚が己が住む世界」だったのです。
お母さんのたっての願いで、話し相手として毎日訪ねることになりました。
「さあ、おたすけだ!」と心は勇み立ちましたが、正直どうすればいいのか分からず、戸惑いの毎日でした。
「臨床」という言葉がありますが、まさにその言葉のように、彼のベッドの横に座り、一人思い付くままにお話をしていたというところです。
しかし、回を重ねる中で、「私は元気だから毎日通うことができる。時間が来れば、また伺いますと失礼する。ところで彼は、生まれてから一度も起き上がったことすらない。彼にとって私の訪問はとても不愉快なこと、残酷なことではないのか…」という思いが心から離れなくなりました。
そんな折、私は風邪を引き、訪問を休みました。
明けて訪ねると、お母さんが「こんなことがありましたよ、髙見さん」と、ニコニコとお話しくださいました。
彼は、私が訪ねる際には一緒にいただいているお昼のおやつを食べなかったと言うのです。
「髙見さんは、僕も同じ神様の子、きょうだいだと話してくれた。そのきょうだいが風邪を引いて来ないなら、僕も食べない」とお母さんに話したそうです。
私は彼に思い付くまま、神様のお話をしていましたが、「一れつきょうだい」のお話をしたことがありました。
彼はそれを覚えていたのです。
私はお母さんの言葉に「何ということだ」と胸が熱くなりました。
彼は身体の自由が全くかないません。
しかし、心はどうでしょうか。
彼はそんな身でも、心を自由自在に使って私のことを思い、そして私から聞いた「一れつきょうだい」の教えを彼なりに実行してくれたのです。
私は人間の尊い姿に触れた思いで、感動を禁じ得ませんでした。
『おさしづ』には、
人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。
明治22年2月14日
とあります。
この世は神の身体
たん/\となに事にてもこのよふわ
『おふでさき』 3号 40
神のからだやしやんしてみよ
これは冒頭のお歌と一連のものです。
つまり、「かしもの・かりもの」の教えは、「この身体は神様からのかりもの」というお話と、「この世は神の身体」という二つのお話から成っていると私は思います。
それは、『天理教教典』に
天地抱き合せの、親神の温かい懐で、絶えず育まれている。
『天理教教典』 65ページ
とある通りです。
私はこのお話をなかなか実感を持って聞くことができなかったのですが、ある大きな「てびき」をいただき、「絶対の救い」となるお話だと感得することになります。
それは布教の道中でした。
結婚して子どももお与えいただき、勇んで努めていたのですが、ある大きな「ふし」を見せられ、意気消沈してしまったのです。
それこそ食事も喉を通らない、夜も眠れないという日が1年近くも続き、信仰すら見落としかねないありさまでした。
そんなもんもんとした日が続いていたある夜のこと。
私は1人で散歩をしていました。
その時は「自分は世界で一番不幸な人間だ」。
そんな精神状態でした。
見ること聞くこと全てを悲しみの中に受け取っていました。
ところが、道端に名も知らない雑草が小さな花を咲かせていました。
私は思わず見入ってしまいましたが、急に腹が立ってきたのです。
「この世の全てが悲しみの中にあるのに、どうして花が咲いているんだ!」と。
今にして思えば全く理不尽な憤りです。
「誰がこの花を咲かせているんだ。全く人の気も知らないで…」
本当にそう思いました。
ところが、次の瞬間、「ああ、この花を咲かせているのは親神様だ」という思いが怒涛のごとくに押し寄せてきました。
そして、「この世は神の身体だからこそ、私が悲しみのどん底にあっても、花を咲かせておられる。どんなにつらく悲しいことであっても、それは神様の身体の中で起こっていることなんだ」という安心感が私を救ってくれ、それからは少しずつ身も心も回復していきました。
絶対のたすかりとは、「この世は神の身体」と信じること。
そう気付いた出来事でした。
つづく
※『Happist』2013年7月号より再掲載