今回は、「ほこり」のお話です。
『天理教教典』では、親神様(おやがみさま)の思召(おぼしめし)に沿わない、自分中心の心遣いを「ほこり」と教えられています。
「ほこり」の心遣いも積もり重なると、ついには十分なご守護をいただけなくなります。
そこで、親神様の教えをほうきとして、絶えず胸の「ほこり」の掃除に努めることを求められます。
「ほこり」の心遣いを理解する手掛かりとして、「をしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」という「八つのほこり」を教えてくださいます。
皆さんもこのお話を聞かれたことがあると思います。
実は、この「ほこり」のお話は『天理教教典』第七章「かしもの・かりもの」の中で教えられています。
小さな埃は
「ほこり」の教えを学ぶとき、高井直吉(たかいなおきち)という先生の「おたすけ」のお話が手掛かりになります。
それは、
明治十六年頃のこと。教祖から御命を頂いて、当時二十代の高井直吉は、お屋敷から南三里程の所へ、おたすけに出させて頂いた。身上患いについてお諭しをしていると、先方は、「わしはな、未だかつて悪い事をした覚えはないのや。」と、剣もホロロに喰ってかかって来た。高井は「私は、未だ、その事について、教祖に何も聞かせて頂いておりませんので、今直ぐ帰って、教祖にお伺いして参ります。」と言って、三里の道を走って帰って、教祖にお伺いした。すると、教祖は、
「それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに、放って置くやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。その話をしておやり。」
と、仰せ下された。高井は、「有難うございました。」とお礼申し上げ、直ぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、「ただ今、こういうように聞かせて頂きました。」と、お取次ぎした。すると、先方は、「よく分かりました。悪い事言って済まなんだ。」と、詫びを入れて、それから信心するようになり、身上の患いは、すっきりと御守護頂いた。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』 130 小さな埃は
というものです。
人間は誰しも、「私は、未だかつて悪い事をした覚えはない」と思うものなのかもしれません。
しかし、この「逸話篇」によると決してそうではなく、誰にでも当てはまるのだと言われます。
誰にでも当てはまることだからこそ、高井先生が教祖(おやさま)に言われてなさったように、お道の教えを知らない人への、「にをいがけ」やおたすけの場面で「ほこり」のお話を取り次ぐのです。
つまり、「ほこり」は信仰の入り口で聞かせていただくお話ということになるでしょう。
ある別席者のこと
以前、「天理教の話を聞かせてもらいたい」と、突然私の教会に訪ねて来られた方がいました。
その方(Aさん)は弁護士でした。私はうれしく思うとともに「どうして聞きたいのですか?」と尋ねました。
すると、「天理教の教えは神一条なんでしょう?」とのこと。
顧客に天理教の会長さんがおられ、その方の言動やお人柄に感銘して、一度、神様のお話が聞きたいと思われたそうです。
しかし、神様のお話を聞くために、わざわざ見知らぬ私を訪ねて来られたのですから、そこにはよほどの理由があったはずです。
それよりも私は、別席を運んでくださるということで胸がいっぱいになり、ともかく、「おぢばへ、別席へ」とご案内させていただいたのです。
東礼拝場の結界前まで進み、「かんろだい」は親神様が人間をお始めくださった証拠であることや、「ぢば」は人間始め出しの元の場所であること。
また、ここに親神様がお鎮まりくださっていることなど、夢中になってお話をさせていただきました。
Aさんは黙って私の話を聞いておられましたが、「私が聞きたいのはそうしたお話ではありません」と、ポツリと仰いました。
突然のことに私は気が動転して頭が真っ白になり、とても気まずい雰囲気になりました。
結局、別席を運んでいただくこともできませんでした。
後日、Aさんは一人娘の子育てのことで悩んでおられたことを人づてに知りました。
誰にも相談できずに悩んだ揚げ句、「天理教は神一条だから」と来られたのでした。
私はなぜ、もっとAさんの胸の内を聞いて差し上げることに心を配らなかったのか、申し訳ない思いがするとともに、高井先生の「逸話篇」を思わなかったことを後悔しました。
お道の教えを全く知らないAさんには、まず「ほこり」のお話をすれば、今悩んでおられる胸の内を私に打ち明けてくださったのではないか、そうすれば一緒に寄り添って差し上げることができたのではないかと思います。
「ほこり」の教えは、信仰の入り口にあって、私たちの悩み、苦悩を解決に導いてくださる希望にあふれた教えであることをお話ししておきます。
つづく
※『Happist』2013年8月号より再掲載