15歳からの教理

天理教山名大教会長 諸井 道隆

第10回 つとめ


さあ、たすけづとめ

前回は、おやさまが今もご存命で世界たすけの上にお働きくださっていることを書きましたが、おやさまが「月日のやしろ」となられてから現身(うつしみ)をお隠しになられるまでの50年間にわたって歩まれた道すがらを「ひながた」と言います。

その50年のひながたにおいておやさまは、まず親神様(おやがみさま)の思召(おぼしめし)のままに人々への施しに家財を傾けて貧に落ち切る道を歩まれましたが、親神様の不思議な「たすけ」を現されて次第に慕い寄る信者が増えてくると、口や筆で親神様の思召を伝えられるとともに、自らお手をとって、「よろづたすけ」のための「つとめ」を教えられました。

しかし、信者が増えると、周囲からの迫害や干渉も激しさを増し、特に大勢の人々が集まって勤めるつとめは、警察によって厳重に取り締まられるようになりました。

おやさまは、つとめが勤められるたびに、再三にわたって警察や監獄に拘留されて御苦労くださりましたが、それでも一貫して人々につとめの実行を促されました。

お側の人々は、ご高齢のおやさまのお身体を気遣うあまりに、逡巡(しゅんじゅん:ぐずぐずすること、しりごみすること、ためらうこと)して、つとめを勤めることができないでいました。しかし、つとめを急き込まれる親神様は、おやさまのご身上に迫ってまで実行を迫られ、明治20(1887)年陰暦正月26日、お側の人々は、意を決しておやさまのご身上平癒を祈願して白昼堂々とつとめを勤めました。そして、おやさまは、皆のつとめを見届けるかのように、現身をお隠しになられたのでした。

このように、おやさまのひながたの後半のほとんどは、人々につとめを仕込まれ、ひたすらその実行を急き込まれ続けたご道中でありました。ですから天理教にとってつとめは、信仰の命と言えるほど大切なものなのです。

では、親神様、おやさまがそれほどまでに強く実行を急き込まれたつとめには、いったいどういう意味があるのでしょうか。

 

「おつとめ」と言えば、皆さんの身近には、教会の月次祭(つきなみさい)などで勤められるおつとめがすぐに頭に浮かぶと思います。実はその根源は、教会本部において「ぢば・かんろだい」を囲んで勤められる「かぐらづとめ」にあります。

ぢばは、親神様が人間を創(はじ)められた元の場所であり、天理王命(てんりおうのみこと)の神名が授けられた親神様がお鎮(しず)まりくださる唯一の地点で、その証拠としてかんろだいが据えられています。

かぐらづとめは、このかんろだいをしんにして、選ばれた10人のつとめ人衆(にんじゅう)がそれぞれ面をつけ、親神様の創造の理を手振りに表して勤められます。

かぐらづとめについて『天理教教典』には、次のように明記されています。

このつとめは、親神が、紋型ないところから、人間世界を創めた元初りの珍しい働きを、この度は、たすけ一条の上に現そうとて、教えられたつとめである。即ち、これによつて、この世は、思召そのままの陽気な世界に立て替つてくる。

(16頁)

つとめは、親神様が何も無い所から人間とこの世界を創められた働きを、世界のたすけの上に現そうと教えられたものであり、つとめを勤める者が親神様のご守護を讃えて心を一つにして陽気に勤める時、親神様もお勇みになられてどんなたすけのご守護も現してくださります。このことからつとめを「よふきづとめ」と言い、あるいは「たすけづとめ」とも言います。

 

また、おやさまのお側で取次(とりつぎ)を務められていたある高弟の先生が残された文書(もんじょ)には、つとめについて次のように教えられています。

よふきづとめをしてたすかるというは、陽気遊山を見ようとて人間を拵えたる世界なり。よって元(初まり)の姿を寄せて、(神も人も)共々に勇むるにつき、たすけるものは、ただ、人間はそれを知らずして、人はどうでも、我が身さえ良くば良きことと思う心は違うから、このたびたすけ教えるは、あしきを払いて、陽気の心になりて願えば、神の心も人間の心も同じこと故、人間の身の内は神のかしものである故に、人間心を勇めば神も勇んで守護すれば、身の内あしき事はつとめ一条で、よろづたすけするというは、願い人はもちろん、つとめの人衆も真実よりたすけたいとの心を以て願うことなり。

(中山正善『こふきの研究』所収
桝井伊三郎(ますいいさぶろう)「神の古記」108頁)

文章の切れ目が不明瞭で読みづらい部分もありますが、どうしたらつとめで不思議なたすけのご守護が現れるのかを非常に分かりやすく説明してくださっています。

すなわちつとめは、勤める者たちが真実よりたすけたいという心になって勤めることが大切で、親神様はその心を受け取ってどんなご守護も現してくださるのだとお教えくださっています。

かぐらづとめは、人間創造の理に基づくものですから、ぢば以外の場所で勤めることはできませんが、たとえば私の教会の初代をはじめとする先人たちは、おぢばから遠く離れた地でもつとめを勤めさせていただいて、人々のおたすけの上に親神様の自由(じゅうよう)のご守護を戴(いただ)きたいとのあつい思いから、おやさまに願い出てお許しを頂き、おぢばより頂戴した親神様の目標(めどう)を前にしてつとめを勤めました。

これが今に続く私たちの教会の出発点でありまして、つとめを勤めるごとに不思議なたすけは次々と現れて、やがて天理教は各地に広がっていったのでした。

 

私は、教会長に成らせていただいてまだ年月の浅い者ですが、自教会の月次祭のおつとめには、初期の先人たちにならって、今も世界のたすかりと、たくさんの人達のおたすけの祈願を込めておつとめを勤めさせていただいております。

その中でも特に差し迫った事柄については、一緒におつとめを勤めてくださる人達にも事前に(差し障りのない程度に)事情をお話して、皆で一緒に祈願してもらうようにしています。

お陰さまで、こうして皆でおつとめを勤めることで、これまで随分多くの不思議なご守護を見せていただいて参りました。

つい半年前にもこんなことがありました。私がよく知る若夫婦の小学生になるお子さんが、交通事故で意識不明の重体になりました。頭蓋骨が損傷したとのことで病院に運び込まれて処置をしていただきましたが、意識障害が残って両親の言葉にも反応せず食事も取れない状態になってしまいました。

お医者さんは最善を尽くしてくださったようですが、それ以上はどうしようもありません。となれば、私たちにできることは、後は親神様のご守護におすがりするのみです。そのご両親も知らせを受けた私も、心定めをしてお願いづとめをしたり、「おさづけ」を取り次いだりして親神様に何とかご守護下さるように毎日お願いしていました。しかし、状況は何も変わりませんでした。そうして20日ほどが経った頃、私の教会の月次祭の日が来ました。

私は、その子の将来のことを思うと今意識が戻らなければ手遅れになってしまうと思い、月次祭の前に、おつとめを勤めてくださる方々に事情を話して一緒に祈願をしてくださるようにお願いしました。果たして皆いつものように真剣におつとめを勤めてくださいました。

それから2日後、突然その親が私を訪ねてきました。私は、瞬間的にああもうダメなのかもしれないと思ってしまいましたが、それは意外にも今日退院できましたとの喜びの報告でした。

聞けば、月次祭の日の午後から急に容態が回復して意識も正常に戻ってきたので今日元気に退院できたとのこと。私はあまりの鮮やかさにあっけに取られると共に、おつとめのお力の凄さにただただ感激するばかりでした。

おやさまは、つとめの振り付けを教えられた時に、

このつとめで命の切換するのや。大切なつとめやで。

(『稿本天理教教祖伝』95頁)

と、理を諭されたと聞かせていただきます。

まさにつとめは、人の命に関わることをさせていただいているのだと思います。

お道の若い皆さんには、将来それぞれの教会のたすけづとめの一員となれるよう、今からしっかりとおつとめの習得に励んでくださることをお願いいたします。

つづく

【次回の更新】7月15日(月)


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