第9回 おやさま

先日、私がよく知る台湾のご婦人がこんな話を聞かせてくれました。

もくじ

教会へ導かれて…

その方は、長年、布教師として台湾で多くの人を導いて「おたすけ」をされてきた方ですが、入信する前は、ある病気に侵されて約10年間寝たきりの生活をしていました。
それが病床で見た不思議な夢の導きによって天理教に入信してたすけられたというのです。

その夢とは、何もない寂しい夜の大草原に一人ぼっちになってしまうという夢でした。
暗がりの中で道もなくどうしたらいいのかも分からずに途方に暮れていると、突然東の方から太陽のような温かい光が差してきて、その方向を見ると光の中で和服を来た日本の女性のような人が何かこちらに手招きをして呼んでいるように見えました。

「あっ、あそこに行けば自分はたすけてもらえるかもしれない」

そう思って、光に向かって歩き出すところで目が覚めるという奇妙な夢でした。

それから不思議なことに、これとまったく同じ夢を2回も見たので、これはきっと何かの知らせに違いないと家族に話していました。
するとその翌日、近所の天理教を信仰している人が一緒に教会へお参りしないかと誘いに来てくれたそうです。
ご婦人はもともと天理教には強い偏見を持っていたそうですが、夢のことがあったので、素直に教会へ連れて行ってもらうことにしました。

初めて教会に参拝してお話を聞くと、なぜかもっと教えを知りたいという気持ちになって、その場で日本の天理に行って修養科に入る心を定めました。
そして、この時を境に約10年間苦しんでいた病が快方に向かい、日本に着くころにはすっかり治ってしまうという鮮やかなご守護を頂いたのでした。

修養科に入ってから、教祖伝を学び、おやさまが今でも存命で世界たすけに働いておられることを知って、あの夢の中で呼んでくださった方は、まさにおやさまだったのだと確信したそうです。

この話は、あくまでこの方の個人的な体験にすぎませんが、私は、おやさまがご存命でおたすけにお働きくださっている姿を見せていただいたような気がして心が勇みました。

  

おやさまの生い立ち

私たちのおやさま中山みき様は、寛政10(1798)年4月18日に、「おぢば」から3キロほど南にある三昧田の前川家にお生まれになりました。

おやさまは、元初まりに親神様(おやがみさま)が人間を宿し込まれた時に母親の役目をされた、いざなみのみこと様の魂のお方で、ご幼少の頃から人をたすける心一すじの大変慈悲深いお方であられました。

御年13才で、人間宿し込みのいんねんある元の屋敷、中山家の人となられ、御年41才にあたる天保9年(1838)年10月26日、約束の年限の到来によって親神様の啓示を受けられて「月のやしろ」となられました。

月日のやしろとなられたおやさまは、「貧に落ち切れ」との親神様の思召(おぼしめし)のままに、貧しい人々への施しに家財を傾けて貧のどん底に落ち切られ、自ら歩んで「ひながた」の道を示されました。
またその中に不思議な「たすけ」を次々と現されて人々に親神様のご存在と思召を伝え、さらには「よろづたすけ」のための「つとめ」を教えて「たすけ一条」の道をひらかれ、明治20(1887)年陰暦正月26日、御年90才で現身(うつしみ)をおかくしになられました。

しかし、おやさまはそれ以降も、お姿こそ見えませんが生前同様に元の屋敷に留まり、よろづたすけをすると教えられて、今も世界の人々のおたすけの上にお働きくださっています。

このことは、『稿本天理教教祖伝』の最終ページに次のように書かれています。

一列子供を救けたいとの親心一条(おやごころひとすじ)に、あらゆる艱難苦労(かんなんくろう)の中を勇んで通り抜け、万人たすけの道をひらかれた教祖(おやさま)は、尚その上に、一列子供の成人を急込む(せきこむ)上から、今ここに二十五年の寿命を縮めて現身をかくされたが、月日の心は今も尚、そしていついつまでも存命のまま、元のやしきに留まり、一列子供の成人を守護されて居る。日々に現われて来るふしぎなたすけこそ、教祖が生きて働いて居られる証拠である。

『稿本天理教教祖伝』 336ページ

  

おやさまが、今も存命で生きてお働きくだされている。
このことが現代を生きる私たちにどれだけの勇気と力を与えてくださることか計り知れません。

おやさまは、親神様が人間を宿し込まれた時に、最初の母親の役目をされた魂のお方ですから、現在約75億人にもなると言われる世界中の人間の元の母親であると言えます。
したがって、おやさまの前には、この世のどんな人間もかわいいわが子であり、おやさまは、すべての人間の母親として子どもの成人を願い、いつも絶対的な愛情を注いでくださっているのです。

これは以前に私がある教会の月次祭(つきなみさい)に参拝させていただいたときに起こった出来事です。

いつもお見守り下さっている

祭典が終わって信者さん方と話していると、突然一人の男性が怖い顔で何やら私に突っかかってきました。

その方は、縁あって最近教会に来るようになったという人ですが、素行が悪く、あまり評判の良い人ではありませんでした。

その男性いわく、天理教のおつとめを聞いていたら「心得違いは出直しや」という部分があったが、天理教では死ぬことを「出直し」と言うそうだから、あれは心の間違っている者は死んでやり直せという意味なのか。
そんなことを言う天理教はとんでもない宗教だと不満をぶつけてきました。

よく話を聞くと、その男性は、若い頃からわがまま勝手な生き方をしてたくさんの人に迷惑を掛けてきたらしく、今では奥さんはおろか親兄弟にも見放されて孤独に暮らしているという身の上でした。
そういう方ですから、「心得違いは出直しや」とは、まるで自分のことを言われているようで許せないと言うのです。

そこで私はその男性にこう答えました。

「確かに天理教では、死ぬことを『出直し』と言いますが、しかし、おつとめのこの部分は、直接的な死を言っているのではなくて『一からやり直す』という意味だと思いますよ」

しかし、その人は容易には納得しません。
そこでさらに次のように話しました。

「親神様は、ない人間ない世界をつくられたすべての親なる神様です。そして、おやさまは、親神様が人間を創られる時に元の母親となられた方ですよ。いわばおやさまは、私たちを産んでくださった実の母親ですよ。その親が、子どもが少しぐらい心得違いをしたからと言って、いとも簡単に『死んでやり直しなさい』なんて言うはずがないじゃないですか。むしろ本当の親ならば、あなたがどんなに救いようのないダメな人間であっても、それでも何とか良くなってもらいたいと思って諦めずに導き続けるはずです。10人が10人、あなたのことを見捨てても、おやさまだけは最後まであなたのことを見捨てないはずですよ」

話し終えると、男性の目は涙でいっぱいになっていました。
そして強く感ずるところがあったのか、教会の皆にこれまでの非礼な振る舞いを詫びて、心を入れ替えるのでこれからよろしくお願いします、とまで言って晴れやかな顔になって帰っていきました。

何がその男性の心を動かしたのか。

私は、おやさまのご存在の温かさが、男性の氷のように凍てついた心を溶かしてくださったのだと思いました。
難しい理屈や高度な説教ではなくとも、ただおやさまのご存在と親としての愛情をそのまま伝えるだけで人の心を救う大きな力があることを知らされた出来事でした。

人生に間違いや失敗、挫折はつきものです。
しかし、そういう時こそおやさまが私たちにおかけくださっている絶対的な愛を思い出したいものです。
そうすれば、自然に温かいものが込み上げてきて、心に優しさと明るさがよみがえり、生きる力が湧いてきます。

おやさまは、いつでも私たちをお見守りくださっている。
この事実に多くの人が目覚めてくださることを願います。

つづく

※『Happist』2010年2月号掲載

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