第9回 かりものの自覚

中学生の時でした。
5キロぐらいのロードレースを走りながら、突然「ああ、こうして吸ったり吐いたりしている空気も親神様(おやがみさま)のもの、親神様からのお与えなんだ。息をしているのも自分の力でしているんじゃない、させていただいているんだ」と、心から思えた瞬間がありました。

そう思うと、身体から無駄な力みが抜けて、自分と世界が一つに溶け合っているような、急に身体が軽くなったような気がして、どこまででも走っていけるような感じがしました。

先人が聞かせていただいた、とされるお話に「人は歩いて、しんどいとか疲れたとか言うが、それは神さんに歩かして頂いているという事を思わず、自分で歩こうと思うからや。
親神様に歩かして頂いていると言う事を思うてさえいれば、何里歩いても疲れはせんものや」とあります。

皆さんも、歩いているときやクラブ活動をするとき、また勉強をするとき、このことを思い出してみてください。
何かが変わってきます。
間違いなく。

「まま食べるのも月日やで、もの言うのも月日やで」と伝えられるように、食事を頂くのも、言葉を話すのも、みんな月日親神様のおかげ。親神様からお借りしている身体に、親神様の自由自在(じゆうようじざい)のご守護を十分に頂いているからこそ、できることなのです。

私たちが何をさせていただくのも、全て親神様のおかげなのです。
この親神様からお借りした身体を思い通りに使わせていただけることを喜び、感謝することが大切です。

皆さんも、何かを友達に貸してあげたりして、その友達が本当に喜んでそれを使ってくれて、心から感謝してくれたらとてもうれしいでしょう。
親神様も同じです。
いや、それ以上です。
親神様も、貸してやっているものを喜んで使ってくれたら、本当にうれしいのです。
ですから、その親神様のご恩を決して忘れないでいれば、一層気持ちよく、「かりもの」の身体を使わせていただけるようになるのです。

しかし、私たちは毎日平穏無事に暮らしていると、ついついそのことを忘れてしまいがちです。
だから、毎日「おつとめ」をしっかり勤めて、おつとめのたびごとに、かりもののご恩をお礼申し上げるのです。
そうすれば、普段の生活の中でも、自然に感謝の心が浮かんでくるようになります。
心を込めておつとめをしっかり勤めれば、おつとめの力で普段の心の在り方が変わってくる。
おつとめの持つ不思議な力ですね。

もくじ

かりものの教えとは

このかりものの教えは、おやさまが「月日のやしろ」となられてから、最初の一年間で、真っ先に親神様から耳うつしがあったお話だ、と昔の書き物に記されています。

めへ/\のみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん

『おふでさき』 3号 137

と仰せられるほどですから、私たちお道の者が、まず第一に心に治めるべき教えですね。

そして、 

このよふハ一れつハみな月日なり
にんけんハみな月日かしもの

同 6号 120

せかいぢうこのしんぢつをしりたなら
ごふきごふよくだすものわない

同 6号 121

かりもの分かれば、扶け合いの心浮かむ

『おさしづ』 明治33年3月22日

とも教えられるように、かりものの教えは、単に身体のことだけにとどまるものではありません。

わが身の内が親神様からの借り物である、というかりものの自覚は、心のありよう自体を変えるのです。
強気(ごうき:何でも自分の思いのままにしようとする心)、強欲(ごうよく:何でも自分が欲しいだけ取りたいという欲望)といった心の「ほこり」を払い、たすけ合いの心をも生み出すものなのです。

自分自身のものと思っているこの自分の身体さえも、親神様から貸し与えてもらっているものなのだと自覚することは、まさに天動説から地動説へとひっくり返ったほどの、世界観、人生観の大転回です。

それは、まず謙虚な気持ちを、そして感謝の気持ちを、さらには神様にもたれ切る気持ちをもたらしてくれるのです。
そしてさらに、かりものに生きる者同士の共感、たすけ合いの心をも浮かばせてくれるのです。

身上障りに込められた親心

痔の身上が私を「おぢば」に導いてくれた話は以前に致しましたが、そうしておぢばに勤めさせてもらうようになってからも、私は、何度もおぢばから逃げ出そうと思ったことがありました。

というのも、私がおぢばに勤めさせてもらうようになって間もなく、父が倒れた事もあって、私は父のやり残した仕事を引き継ぐことになったのですが、それは若造の私にはあまりにも荷が重いご用だったのです。
私はそのプレッシャーに押しつぶされそうでした。

そんなある日、私はとうとう耐えられなくなって、「もう嫌だ。何もかもやめてやる!」と思いながら自転車で帰る途中、また、ズボンのお尻の辺りが濡れているのに気付きました。
家に帰ってズボンを脱いでみると、紺のコールテンのズボン全体が、血でズクズクになるほど大出血していたのです。
それを見た瞬間、私はつらいというより、「ありがたいなあ」と心底思いました。
神様はこれほどまでに鮮やかに見せてくださるのか!

かりものの身体に障りを付けてお導きくださるとは聞いていたが、これほど鮮やかにお示しくださるとは!

こうしてようやく、当初はフラフラしていた私も、生涯ここで勤めさせていただこう、という決心が定まったのです。

こうして、身上にしるしを付けてお導きくださる親心も、本当にありがたい。
これもまた、かりもののありがたさです。

私たちは、元気なときも、病めるときも、大きな大きな親神様の親心とご守護に抱かれて生かされているのです。

つづく

※『Happist』2012年12月号掲載

この記事をみんなにシェア!
もくじ