第11回 おつとめの心

陽気ぐらし」をするための手立てとして、おやさまがお教えくださったのが、「おつとめ」です。
このおつとめによってどんな「たすけ」もしてやろう、陽気づくめの世にしてやろう、と仰せられています。

なにもかもよふきとゆうハみなつとめ
めづらし事をみなをしゑるで

『おふでさき』 7号 94

どのよふにむつかしくよふみへたとて
よふきつとめてみなたすけるで

同 12号 61

皆さんもそうだと思いますが、私も人生の分かれ道に立ったとき、また自分ではどうしようもないとき、このおつとめによってどれほど力づけられ、導かれてきたか、その経験は数知れません。

もくじ

5本の指をしっかり付けて

おつとめの手振りについて、おやさまは、

つとめに、手がぐにやくするのは、心がぐにやくして居るからや

『稿本天理教教祖伝』 第5章

と仰せられました。
とすると、逆に「手をしっかりすれば、心もしっかりしてくる」とも言えるのではないでしょうか。

おやさまの直弟子の先生方がお手直しをされるとき、口をそろえて強調なさったことは、

特に親指や子指を離さないよう、充分注意するよう

『山田伊八郎伝』

であったそうです。

実際そのことに気を付けて手を振ってみると、おのずとおつとめに心がグーッと入っていく、という感じがしてきます。
何か無しに手を振っているというのでなく、理を振っているのだという感じがしてきます。

おやさまは、

これは、理の歌や。理に合わせて踊るのやで。たゞ踊るのではない、理を振るのや

『稿本天理教教祖伝』 第5章

と仰せられました。
つまり、「みかぐらうた」に歌われた理に合わせて踊るのや、ということであります。
それは、みかぐらうたの理を味わい、そのお歌の理に自分の心を合わせて踊るのや、ということでありましょう。

みかぐらうたのお歌の意味

そのために、まず第一節の「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」のお歌の意味について考えてみましょう。

「あしきをはらうて」の「はらうて」の時に、胸を払う手振りをします。
「あしき(悪しき)」はわが胸にあると仰るのです。
「悪しき」の本体は心の「ほこり」であって、これが、身上(みじょう)・事情(じじょう)など人間にとって良くないことすべての元となるのです。

次に、「たすけたまへ」とは、誰をたすけたまえ、と祈るのでしょうか。
根本的に言って、おつとめは人だすけ、世界たすけの方法として教えられたものです。
だからこそ、先人は明治20年正月26日のおつとめの時、「命捨てても」とまでの覚悟で勤められたのです。

こうして勤められる「かぐらづとめ」においては、「たすけたまへ」の対象は世界全体であり、私たちが勤めるおつとめは、この親神様(おやがみさま)の世界をたすける理を戴くのです。
二十一回繰り返すのは、三(身につく)×七(何にも言うことない)という意味だと仰せられます。(『道友社ブックレット2 かんろだい物語』参照)
つまり、親神様の世界をたすける理が身について身について、何にも言うことないまで身につくということだと思います。
つとめがたすけのもとだて(根本)というゆえんでありましょう。

また、おつとめと「おさづけ」は、たすけの範囲は「よろづたすけ」と一人の身上と違っていても、同じ手振りで、唱える言葉もほとんど同じですから、本質的には共に「たすけ一条」の道として、その心は同じものであります。

つまり、「あしきをはらうてたすけたまへ」とは、「自分の心のほこりを払い、あの人もこの人も、世界一れつみんなをたすけたまえ」と祈ることだと思います。それが親神様の思召(おぼしめし)にかなう誠真実の祈りだと思います。

まず、自分の心のほこりを払うことが、相手(世界)がたすかることに繋がる、というのは、

さあ/\人間の誠の心の理が人の身を救けるのやで。さあ/\人の誠の心が我が身救かるのやで。

『おさしづ』明治21年8月9日

とあるように、「おたすけ」においても、また日常生活においても基本的な心構えでありましょう。

おつとめの心とひながた

この、「胸の掃除をして、人をたすける」という、真実のたすけ一条の心こそ、おやさまが自ら「ひながた」を示して私たちに教えられた、親神様の御心にかなう心、通り方だと思います。

おやさまは神の「やしろ」と定まられてから、

貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん

『稿本天理教教祖伝逸話篇』 4 一粒万倍にして返す

表門構え玄関造りでは救けられん

同 5 流れる水も同じこと

と仰せられて、下の者もみんな道につきやすいようにと、自ら家財も家も倉も田地も手放されて、貧のどん底に落ち切られたのです。

それは、物質的な欲望を離れる道であるとともに、名誉や体裁といった精神的な欲望など、あらゆる人間思案を捨て去る道であります。
思うに、人間は胸の掃除をして、我欲を離れれば離れるほど、自然と人の身になれるのであって、それが人をたすける上でまず第一に求められるものなのではないでしょうか。

こう考えると、おやさまのひながたは、おつとめを勤める心を教えられたひながたでもあった、といえるのではないでしょうか。

「心のあしきを払って、あの人もこの人も、世界一れつをたすけたまえ」と願うかぐらづとめのお歌には、おやさまのひながたにこもる親心がいっぱいに詰まっている、と思案するのです。

こうした心でおつとめを勤めることは、おやさまのひながたをたどることであり、そのおつとめの理によって、日常生活もおつとめの理に沿い、ひながたに沿ったものになってきます。
これがおつとめの持つ不思議な力です。

そうした中でも、私たち人間は心の自由を持っていますから、日常生活をおつとめの理に合わそうとする心掛けが大切です。
そうして日常生活をおつとめの理に合わせるとき、初めておつとめそのものも、しっかり思召に沿って、心をそろえて勤めることができるようになるのです。

つづく

※『Happist』2013年2月号掲載

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