第4回 胸の掃除(2) −たんのうとは−

「胸の掃除」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
心にたまったいろんな埃や泥をきれいに掃除して、澄み切った心になることですね。

胸の掃除をさせていただく上で、日々の心の持ち方としては、「たんのう」が大切だと思います。

たんのうとは一言で言えば、満足すること。
不足する心、欲の心の反対ですね。
それは、現実がどんなものであっても、その中に親神様(おやがみさま)のご守護を見い出して感謝することです。

現実というものは、必ずしも常に自分の望み通りとは限らない。
むしろそうでないことの方が多いでしょう。
思いもよらない身上(みじょう)や事情(じじょう)で悩む日もある。
自分の望んだものとはかけ離れたような道を歩かなければならないこともある。
また、自分が望んで、あるいは納得して歩き始めた道であっても、こんなはずじゃなかったと思うような日もある。

しかし、どんな日々であっても、その中に、与えられている親神様のご守護というものは、必ずあるのです。
そのご守護に気付くこと。
それが一番大切な事です。
それをたんのうと教えられる。

このたんのうの心の治め方を、おやさまは「ひながた」の道を通して教えてくださいました。

貧のどん底を歩まれている道中、こかん様が「お母さん、もう、お米はありません」と、言われた時、おやさまが、

世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。

『稿本天理教教祖伝』 40ページ

と、諭されたお言葉は、まさしくたんのうの真髄ですね。

親神様からお借りしているこの身体に、火水風をはじめ十全のご守護を結構に頂いている。
このご恩を日々に思うことは、決して尽きることのない喜びの源泉です。

もくじ

私のたんのう体験

私は学校を卒業してから約2年ほどの間、お道の素晴らしさを頭で分かってはいても、自分が一生通っていく自信は無いという葛藤の中で、これからどうやって生きていったらよいのか分からず、学生時代を過ごした東京で、アルバイトをしながらアングラ劇団に通ったりして、さまよえる青春時代を送っていました。

そのころ、私は痔を患いました。
毎朝トイレに行くたびに、真っ白い便器が見る見る間に真っ赤に染まっていきました。

そんなある日、実家に帰った時に、そばに居た父が半ば独り言のように、「痔になるのは、居るべき所に腰がすわらんからや」とつぶやいたことがあったのですが、私はそれも聞き流していました。

しかし、「おぢば」に学生会のOB仲間が集まって飲んでいた時に、学生時代にお世話になった先生から聞いた「俺がお前らに一言だけ言うとしたら、それは理に逆らうな、ということや」という一言が、明日の見えない日々を暗中模索していた私の胸にスーッと沁(し)み入ってきて、「理に逆らうな、ということは、今の自分にとっては、おぢばに勤めさせてもらうということやな」と思った瞬間に、モヤモヤしていた心が一瞬のうちに晴れ上がって、楽しくて楽しくて仕方がないような気分になったのです。

こうしておぢばで見習い青年として勤めさせていただく決心をすると、痔の出血もピタッと止まりました。
まさしく、父の言った通りで、私にとっておぢばは、「ぢ」が治る「ば」しょでした。

初めは、やっと自分の居場所にたどり着けたと、とても勇んで楽しく勤めていました。
そのころから、父が本当に父親らしく見えるようになりました。
それまでは、私が父の51の時の子どもであったためか、孫みたいに猫かわいがりしてくれるおじいちゃんという感じだったのです。
それで父に「このごろ、お父ちゃんがほんまに父親らしく見えるわ」と言うと、「それは、こっちも本気になっているからな」と言ってくれました。
今思い出しても、本当に幸せな、夢のような時間でした。

しかし、私がおぢばで勤め始めてわずか一カ月半後、その父が突然脳出血で倒れてしまったのです。
ひどくショックでした。
神様は何を考えているのか。
あれこれと思案しましたが、一向に心は晴れません。

そんなある日、神殿で「おつとめ」をした帰り道でふと心に浮かんだのは、父が「嘉世が学校を全部出るまで元気で置いてもらいたい」と、いつも口癖のように言っていたことでした。
「そうか。父は望み通り、私が学校を終えて、少し回り道もしたけれど、おぢばに勤めさせてもらうようになるまで元気で置いていただいたんだ。そう思えば、本当に有難いご守護だったんだ」と思えました。
そうしたら、その瞬間に、目の前がサーッと開けるような思いがして、このふしで何を神様が仰っているのかが見えてくるような気がしたのです。

神様はこの父の身上を通して、私に「低い心になれ」と仰っているように思いました。
それは私の家に代々伝わる家訓のような言葉だと、後から聞かされました。
その時「たんのう」のコツがつかめたような気がします。

人はつらい事があって、現実が受け入れられない時、そのつらさから逃れようとしていろいろに思案します。
お道の者なら、これはどういう神様の思召(おぼしめし)なのだろうかと、いろいろ思案を巡らすでしょう。
それは確かに必要な過程かも知れません。

しかし、何よりも一番大切なことは、そうした「ふし」の中にあっても、親神様から与えられているご守護があることに気付くこと。

その時、心の底から喜びがわき上がってきて、心の扉が開かれ、おのずとそのふしに込められた親神様のメッセージというものが胸に映ってくる、読み取れてくるように思うのです。

つづく

※『Happist』2012年7月号掲載

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