第32回「御苦労」

01. 参詣人来らざる日ハ一日もなし、巡査の来らざる日もなし。

明治15年以降、お屋敷への干渉圧迫は、相当なものがありました。

お屋敷では、巡査が夜昼の別なく巡回し、参拝者があれば警察に連れて行って説諭するなどの妨害が常態化していました。ですから表には、「参詣人御断り」との張り紙がなされていましたが、それでもお詣りに来る人は途絶えません。

中山家の戸主となられた眞之亮様は、17歳というお若さで、一家の事はもちろん、官憲の取り締まりや村人、参拝信者への応対など、万事にわたって責任者として矢面にお立ちになり、お心を砕かれました。この当時を記された手記には、次のようにあります。

「参詣人来らざる日ハ一日もなし、巡査の来らざる日もなし。」

「眞之亮ハ、十五、十六、十七ノ三ヶ年位、着物ヲ脱ガズ長椅子ニモタレテウツ/\ト眠ルノミ。夜トナク昼トナク取調ベニ来ル巡査ヲ、家ノ間毎/\屋敷ノ角々迄案内スルカラデアル。」

お屋敷を取り巻く状況は、それほど緊迫していたのです。

そしてこの間、おやさまも何度も警察署や監獄署に御苦労くださいました。

02. 「御苦労」とは

これまでにも述べてきましたが、おやさまが警察や監獄にお出ましになることを「御苦労」と呼んでいます。

多くの先人も、道を通る中に留置投獄されるということはありましたが、「御苦労」という表現は、おやさまの場合にしか用いません。「御苦労」という表現には、どのような意味が込められているのでしょうか。

おやさまが警察署や監獄署に御苦労くださった回数は、17、8度にも及びます。年代では明治7(1874)年から19(1886)年、御年77歳から89歳にかけてに当たります。中でも、初代真柱様の手記にあった明治15、16、17年の間が特に多く、年に何度も御苦労くだされました。

おやさまご自身は、月日のやしろであられますから、一れつの子供をたすけ上げたい一条の親心で、この道をおつけになるのにどんな難儀な事もおいといなさいません。(※行動をためらわないこと)「巡査の来るのは、神が連れて帰るのや。警察へ行くのも、神が連れて行くのや。」「ふしから芽が出る。」などと仰せられ、いそいそとお出かけになられました。

他方、おやさまをお慕いする人々の立場からすれば、すべては親神様のなさることとはいえ、大恩あるおやさまに、自分たちの成人が鈍いばかりにこのような御苦労をおかけして、何とも申し訳ないという忸怩じくじたる思い(※自分のおこないについて、心のうちで恥じ入るさま)であったに違いありません。

そうしたおやさまをお慕いする者の切々とした思いが、この「御苦労」という言葉によって表されているのです。

03. 御休息所

このような状況でしたので、おやさまに少しでもゆっくりとお休みいただけるように、お居間を普請させていただこうとの機運が上がり、つとめ場所の北側に建物が建てられました。それが「御休息所」です。

明治16(1883)年11月25日(陰暦10月26日)の夜、おやさまは新築になった御休息所へとお移りになりました。

真夜中近く、刻限が来るのをお待ちになって、おやさまは庭いっぱいに集まった信者たちが見守る中、お移りになりました。そして、上段の間にお座りになり、両脇に眞之亮様とたまへ様をおすえになって夜通し信者の人々のご挨拶を受けられました。

決して大きな建物ではありませんが、おやさまにお過ごしいただくためのお居間を普請させていただくことができ、人々の感激も一入ひとしおであったでしょう。

以後、おやさまは、現身をお隠しになるまで、この御休息所にお住まいになりました。この建物は、現在も記念建物として教祖殿北側に保存されています。

現在、記念建物として保存されている御休息所

04. 教会設立への動き

一方、こうした中も、道の教えは、ますます全国に伸び拡がっていきました。

おやさまは、度重なる御苦労の中も、常に「ふしから芽が出る。」とお諭しになりましたが、まさにそのお言葉通り、ふしの度毎に信者は増えていき、おやさまが監獄署からお帰りの際には、万を超える人々がお迎えするほどになりました。

しかし、これがまた官憲の警戒を強めることになり、お屋敷やおやさまはもちろん、各地の講社や信者へのさらなる迫害へとつながっていきました。

そこで、このような状況を避けるためには、法的な公認を得るより他ないと、教会設立への動きが活発化していくことになります。

今回のまとめ

プリントして学ぼう

参考年表

1798年
4月18日 教祖(中山みき)誕生

大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。

1810年
中山家にご入嫁

9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。

1838年
教祖「月日のやしろ」に定まる(立教)

10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。

1840年
「貧に落ち切れ」の神命により、家財道具などを施される

親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。

1853年
善兵衞様のお出直し・こかん様の神名流し・母屋の取り壊し

善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊しが行われる。

1854年
をびや許しの始め

11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。

1864年
つとめ場所の普請

本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。

1864年
大和神社のふし

棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。

1861~1865年頃
お屋敷へ通う人が増えてくる

不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てくる。

1866年
「あしきはらひ…」の歌と手振りをお教え頂く

この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。

1869年
おふでさき ご執筆

明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされる。

1869年
秀司様 ご結婚

明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる。

1872年
75日間の断食・別火別鍋を仰せ出される

断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される。

1872年
高山布教

政治権力を持ち、財力を持ち、身分地位の高い人々のことを「高山」と呼ばれ、高山布教が進められる。

1874年
赤衣を召される

12月26日に、初めて赤衣をお召しになられ、着物、足袋や草履の鼻緒に至るまで、すべて赤色のものを身に付けられました。

1875年
ぢば定め

6月29日(陰暦5月26日)、おやさまは、かんろだいの「ぢば」を初めて示されました。

1875年
こかん様のお出直し

おやさまの五女としてお生まれになったこかん様が、9月27日にお出直しになられる。

1877年
女鳴物の三曲を教えられる

おつとめの女鳴物となる、琴、三味線、胡弓をおやさま御自らお教えになる。

1880年
天輪王講社の開筵

官憲からの干渉圧迫を逃れるため、地福寺の出張所という扱いでお屋敷に「転輪王講社」が設置される。

1881年
秀司様のお出直し

おやさまのご長男としてお生まれになられた秀司様は、4月8日、お屋敷にてお出直しになる。

1880年
眞之亮がお屋敷へ移り住む

眞之亮様は、明治13年、15歳の年にご生家の梶本家を離れ、中山家の跡継ぎとしてお屋敷で常住なされるようになりました。

1880年
かんろ台の石普請が始まる

かんろだいの石普請が始まりましたが頓挫し、翌年、警察が二段までできていたかんろだいを没収しました。

1880年頃
「こふきを作れ」とお命じになられ

明治13・14年頃から、おやさまは、お側の人々に「こふきを作れ」とお命じになられる。

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