01.はじめに
明治2(1869)年の正月より、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされました。
おふでさきは、五・七・五・七・七の和歌体で記されており、お歌の数は1,711首。17冊にわけて綴じられ、そのひと綴りごとに、第一号、第二号、…と呼んでいます。
おふでさきを執筆された期間は、明治2(1869)年から明治15(1882)年にかけてですが、必ずしも毎年のように書かれたのではなく、たくさん書かれた時もあれば、まったく筆を手にされない期間が数年に及ぶこともありました。※「ご執筆年代とお歌の数」参照
02.おふでさきの意義
おふでさきの意義について、おふでさき本文の中では、次のように述べられています。
このよふハりいでせめたるせかいなり
なにかよろづを歌のりでせめ (一 21)せめるとててざしするでハないほどに
くちでもゆハんふでさきのせめ (一 22)なにもかもちがハん事ハよけれども
ちがいあるなら歌でしらする (一 23)
この世の森羅万象一切は、親神様のお働き、即ち天の理によって成り立っているのであり、そのすべてを和歌にして教える。しかも、その教え方は、「手出し」するのでも「口で言う」のでもない。心得違いは和歌として書き記して知らす、との仰せです。
また、おさしづには、
これまでどんな事も言葉で述べた處が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた。ふでさきというは、輕いようで重い。輕い心持ってはいけん。話の臺であろう。
(明治37年8月23日)
とも教えられます。
人間の記憶はあいまいで、簡単に忘れたり、変わったりします。また、口にした言葉は発した瞬間から消えていきますが、文字として書かれたものは長く残ります。
この道の教えは、この世人間を創められた元のをやの教えであり、永遠の真理です。「輕いようで重い」「話の臺であろう」との仰せ通り、どのお言葉にも親神様の深いたすけ一条の思召がこもっています。
おやさま直筆の教えであるおふでさきこそ、私たちの信仰の確かなよりどころです。
03.ご執筆の様子
おふでさきを書かれた時の様子について、おやさまは後年、ある信者さんに次のようにお話されています。
「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで。』と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ。』と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ。』と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである。」
(『稿本教祖伝逸話篇』22「おふでさき御執筆」)
「豆腐屋の通い」とは、豆腐を買う際に後払いのために購入記録を記す「通い帳」ではないかと思います。親神様のお心をしたためられるには、そのような日常生活でやり取りされる文字さえ邪魔になるということでしょうか。そして、筆をお持ちになれば、手がひとりでに動いたと仰います。夜の暗がりの中でさえ、そのように筆が走ったとも伝わりますから、まったく親神様のお心そのままを何の混じりけなく文字になされたということがよく分ります。
このお言葉の冒頭に「あんた、どないに見ている。」と仰せられるように、このお話は、単にご執筆の様子を述懐されたのみでなく、おふでさきを読む者の心構えをも教えられているように、私は感じます。
つまり、おふでさきを読む者は、すべてを親神様のお言葉として一言一句を疑わず素直に向き合い、繰り返し読んで、親神様の思召が自分の心に映ってくるくらいに、じっくりと思案を重ねることが大事だということです。
このよふをはじめた神のゆう事に
せんに一つもちがう事なし (一 43)
おふでさきこそ、すべての人間の元の母親たるおやさまが、子供である私たち一人ひとりにあててお書き残しくださった直接のお言葉であり、世代を超え、人種を超え伝えていくべきすべての人類にとっての宝なのです。
ご執筆年代とお歌の数
号 | 年代 | お歌の数 |
---|---|---|
第一号 | 明治2年正月 | 74首 |
第二号 | 明治2年3月 | 47首 |
第三号 | 明治7年1月 | 149首 |
第四号 | 明治7年4月 | 134首 |
第五号 | 明治7年5月 | 88首 |
第六号 | 明治7年12月 | 134首 |
第七号 | 明治8年2月 | 111首 |
第八号 | 明治8年5月 | 88首 |
第九号 | 明治8年6月 | 64首 |
第十号 | 明治8年6月 | 104首 |
第十一号 | 明治8年6月 | 80首 |
第十二号 | 明治9年頃 | 182首 |
第十三号 | 明治10年頃 | 120首 |
第十四号 | 明治12年6月 | 92首 |
第十五号 | 明治13年1月 | 90首 |
第十六号 | 明治14年4月 | 79首 |
第十七号 | 明治15年頃 | 75首 |
今回のまとめ
プリントして学ぼう
参考年表
大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。
9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。
10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。
親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。
善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊し。ここから約10年間は、中山家にとって最も苦しい貧のどん底の期間にあたる。
11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。
本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。
棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。
不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てきました。
この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。
明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされました。
明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる
断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される