おやさまは、外に向けて積極的に道をつけにかかられるにあたり、ご自身が月日のやしろであられる理をより鮮明に示されました。
01.「神」から「月日」へ
山村御殿へ出向かれる少し前、明治7(1874)年12月よりご執筆なされたおふでさき第六号より、親神様の呼称を「神」から「月日」へと言葉を改められました。常に目の当たりに仰ぎ見ることのできる月日と呼ぶことで、そのご存在とご守護の理をよりはっきりと実感できるように表現してくださったのです。
親神様の御理は、天にては月日として現われ、地上においてはおやさまにお現われくだされるのです。すなわち、おやさまは「地上の月日」であらせられます。
02.赤衣の理
おやさまは、山村御殿からお帰りになられた3日後の12月26日に、初めて「赤衣」をお召しになられました。お着物はもちろんのこと、足袋や草履の鼻緒に至るまで、すべて赤色のものを身に付けられました。
このたびハあかいところいでたるから とのよな事もすぐにみゑるで(六 62)
このあかいきものをなんとをもている なかに月日がこもりいるそや(六 63)
赤衣を召されることで、親神様とおやさまはその理一つであるということを誰の目にもはっきりと分かるようにお示しになられたのです。
03.お守りの理
そして、赤衣のお召下ろしは、決められた寸法に断って、悪難除けのお守りとしてお下げくださるようになりました。
このお守りは、本人がおぢばへ帰り願い出てお下げ頂くもので、「証拠守り」とも言われます。「証拠」とは、確かにおぢばでおやさまの教えを聞かせていただいた証拠であり、また一つには、聞かせていただいた教えを日々守って通る中に、確かなお働きを頂戴できるという証拠でもあろうと思案します。
お守りを頂戴したならば、常に肌身に付けさせていただくことが肝心です。赤衣にこもるおやさまの親心を感じ、いつでも、どこでもおやさまと一緒に過ごさせていただけるありがたさを、このお守りを通じて味わわせていただきます。
04.さづけの理
さらに、おやさまは赤衣を召されたその日に、次のように申されて、4名の者に身上たすけのための「さづけの理」を渡されました。
一に、いきハ仲田、二に、煮たもの松尾、三に、さんざいてをどり辻、四に、しっくりかんろだいてをどり桝井
それぞれ、息のさづけ、煮たもののさづけ、てをどりのさづけ、かんろだいてをどりのさづけの4種類のさづけの理です。
いまゝでハやまいとゆへばいしやくするり みなしんバいをしたるなれども(六 105)
これからハいたみなやみもてきものも いきてをどりでみなたすけるで (六 106)
どのよふなむつかしきなるやまいでも しんぢつなるのいきでたすける (六 108)
おやさまは、さづけの理を取り次ぐことで、親神様のお働きを頂戴し、どんな身上もおたすけいただけるということをお示しになりました。このさづけの理は、人をたすける誠真実の心に授けられるのであり、おやさまの手足となってたすけ一条の上に働かせていただくための手立てとしてお渡しくださるのです。
ちなみに、現在、別席の順序を運んで願い出て頂戴するおさづけの理は、このうちの「てをどりのさづけ(あしきはらひのさづけ)」です。
05.お屋敷づとめの心得
そして続いて、数え歌に現わして、お屋敷に勤める人々の心の置き所を諭されました。
五ツ いつものはなしかた、六ツ むごいことばをださぬよふ、七ツ なんでもたすけやい、
八ツ やしきのしまりかた、九ツ こゝでいつまでも、十ド ところのおさめかた
この意味について、私なりの思案ですが、
常日頃の言葉遣いは、柔らか優しい心で丁寧に/人を押さえつけるような言葉を出さないように/どんなことでもたすけあって/互いに慎みの心を持ち、気を引き締めて物事を取り締まり/いつまでもここで長く堅く勤める心を定めて/我がこととしてこの屋敷を治めていくように…
と、屋敷の治まりは、世界の治まりの元(手本)となるのだから、お屋敷に勤める者が一手一つになるよう促されたのではないかと思案します。それだけでなく、おさづけの理を渡されるのと同時の諭しであることから、にをいがけ・おたすけをさせていただくことと、内を治める努力は、車の両輪であることをも仰せくださっているように感じます。
今回のまとめ
プリントして学ぼう
参考年表
大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。
9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。
10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。
親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。
善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊し。ここから約10年間は、中山家にとって最も苦しい貧のどん底の期間にあたる。
11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。
本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。
棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。
不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てきました。
この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。
明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされました。
明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる
断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される