第14回「引き寄せられる人々」

01.慕い寄る人々

をびや許しを道あけとして、不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、親神様のご存在とそのご守護も広く知れ渡っていき、やがて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てきました。

立教より25年後の文久、元治の頃(1861~1865年頃)には、のちにおやさまの手足となって道の上に務められる人が、次々にお屋敷に引き寄せられます。

この頃に入信した主な人をあげると、

西田伊三郎(櫟枝村)、村田幸右衛門(前栽村)、仲田佐右衛門、辻忠作(豊田村)、山中忠七(大豆越村)、飯降伊蔵(櫟本村)、山澤良治郎(新泉村)、上田平治(大西村)、桝井伊三郎(伊豆七条村)、前川喜三郎(法貴寺村)

などの人々です。

自身や家族の身上などをきっかけに、おやさまのもとに足を運ぶと、おやさまは、

  「よう帰って来たな。待っていたで。」

『稿本教祖伝逸話篇』8「一寸身上に」

  「待っていた、待っていた。」

『稿本教祖伝逸話篇』10「えらい遠廻わりをして」

などと、優しく温かなお言葉をおかけくださいました。

「待っていた」という言葉は、通常、特定の人を思い描き、その人が実際に自分の許に来たときに出る言葉でありましょう。おやさまは、世界中の人間の母親でありますから、どんな人も可愛いわが子であり、その子供の帰りをいつも心待ちにしておられるのです。

身上・事情にお手引きを頂いて、わらをもすがる気持ちでお屋敷へ帰ってきた人々に、おやさまは優しく温かく接せられ、不思議なたすけをお見せくださるとともに、少しずつ親神様のご存在やそのご守護についてお聞かせになりました。おやさまの親心に触れた人々は、何とも言えない慕わしさを強く心に感じたのでした。そして、そのお話がだんだんと心に治まり、心が救われていったのです。

おやさまにたすけて頂いた人々は、当時、すでにかなりの数の人がいたようです。

その中から、おやさまのお話を素直に真剣に心に聴き、たすけて頂いたご恩を忘れず、ご恩返しの気持を強く心にもって、教えられるままに精一杯に通る人が、一人、また一人と増えていってこの道は広まっていったのです。そうして、今の私たちにつながっているのです。

02.離反する人(助造事件)

その一方で、たすけていただいても、そのときだけの感激で、恩を忘れる人もあります。それどころか、教えを自分勝手に解釈して、自分の都合のいいように利用しようとする人も出てきました。

当時、おやさまにたすけて頂いた人の中に、針ケ別所村の今井助造という人がいました。

初めは救けられて熱心にお屋敷へ参拝に来ていましたが、やがて、ぷっつりと来なくなっただけでなく、あろうことか針ケ別所こそが本地であり、庄屋敷は垂迹すいじゃく、つまり、針ケ別所の神が庄屋敷に現れているに過ぎないと主張し出しました。

根本たる親神様の理を錯誤した、とんでもない非常に重大な誤りです。

これに対し、おやさまは、大変厳しい態度をお取りになります。

30日余りも断食をなされた後に、お伴の者を4名連れて自ら針ケ別所へ赴き、直接、談判なされ、一週間ほどそこへ滞在されて、徹底してその間違いをただされました。

このことは、私たちもよく心得ておくことが必要です。

教えを自分勝手に理解して、根本をねじ曲げることは、何よりも強く戒められます。

もちろん、人間誰しも心に間違うことはあります。往々にして、自分の間違いは自分自身では気付きにくいものです。

教祖が飯降伊蔵さんにお話になられた中に、

「世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」

『稿本教祖伝逸話篇』31「天の定規」

とありますように、『おふでさき』や『みかぐらうた』、『おさしづ』といった原典はもとより、おやさまのひながたを定規として、そこに教えて下さることを素直に学び修めようとする努力を、それぞれの年齢なりに、常に心掛けることが大切なのです。

今回のまとめ

プリントして学ぼう

参考年表

1798年
4月18日 教祖(中山みき)誕生

大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。

1810年
中山家にご入嫁

9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。

1838年
教祖「月日のやしろ」に定まる(立教)

10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。

1840年
「貧に落ち切れ」の神命により、家財道具などを施される

親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。

1853年
善兵衞様のお出直し・こかん様の神名流し・母屋の取り壊し

善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊し。ここから約10年間は、中山家にとって最も苦しい貧のどん底の期間にあたる。

1854年
をびや許しの始め

11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。

1864年
つとめ場所の普請

本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。

1864年
大和神社のふし

棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。

1861~1865年頃
お屋敷へ通う人が増えてくる

不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てきました。

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