第27回「秀司様」

01. 転輪王講社の設置後

転輪王講社の開筵かいえん式が執り行われてから8日後の明治13(1880)年9月30日(陰暦8月26日)、お屋敷において、初めて三曲(琴、三味線、胡弓)を含む鳴物をそろえてのおつとめが勤められました。

「親神は退く」とのおやさまの厳しい反対を押し切り、秀司様が一命を賭して設立された転輪王講社ですが、これを機に、教え通りのおつとめを勤めることができ、秀司様のお心には、少しでも親孝行になったとの思いが浮かばれたのではないかと拝察します。

しかしながら、秀司様はそれから半年余りのち、61歳でお出直しになりました。

02. 月日いがめてくろふかけたで

秀司様は、文政4(1821)年7月24日、善兵衞様とおやさまのご長男としてお生まれになりました。唯一の男のお子でしたので、家の跡取りとして、周囲も、またご自身も、早くからその自覚をもってお育ちになられたでありましょう。

そうした中、天保8(1837)年10月26日、秀司様17歳の時に、突然足に痛みが現れます。そして、そのちょうど1年後に親神様が天降られて、おやさまが月日のやしろと定まられました。(第6回参照)

親神様は、秀司様の足の障りを機縁として表にお現れになりましたが、その後も秀司様の足の痛みは続きました。

みのうちにとこにふそくのないものに 月日いがめてくろふかけたで(十二 118)

ねんけんハ三十九ねんもいせんにて しんばいくろふなやみかけたで(十二 119)

このはなし四十三ねんいせんから ゑらいためしがこれが一ちよ(十五 50)

このためしなにの事やとをもうかな つとめ一ぢよせくもよふやで(十五 51)

「ためし」とは、親神様の自由自在のお働きを証拠として現されることです。特に、秀司様の足の悩みについては、つとめによるたすけを知らしめるものだと仰せになります。つまり、世界一れつのたすけに関わる「ためし」だということです。

立教以来、いかに親神様が秀司様に深い思召をおかけになっているかを思わずにいれません。

03. 道を守る苦心と覚悟

秀司様は、ご自身が元初まりにおける、月よみのみことの魂のいんねん(万つっぱりの理)をお持ちであることも、また、親神様が世界たすけの台として自分をお使いになっていることも、よくご承知になっておられたのではないかと拝察します。

貧のどん底生活においても、時には村の子供たちに読み書きを教え、また青物や柴を商いながら一家を支えられ、また、ご自身の結婚においても、魂のいんねんを諭されて親子ほども年齢の違うまつゑ様をお迎えになりました。こうしたご姿勢は、月日のやしろである母、おやさまに常に接し、そのお心を真からご理解なさっていたからこそでありましょう。(第9回第18回参照)

やがて、教えが広がり信者が増えるにつれ、山伏、僧侶や悪者どもの狼藉ろうぜき、さらには官憲による圧迫、干渉が増し、おやさまが拘引こういんされるようなことも出てきました。おやさまは、道のためにはどんな難儀もおいといになりませんが、おやさまや信者を守るために、秀司様はその責任を一身に負い、親神様の思召と世上との狭間に立たれて対処なされます。

吉田神祇官領や地福寺へ公認を求めたり、風呂・宿屋業を営んだりなされたのも、どうでもおやさまを、この道を守るために決断なされたことです。おやさまの意に背いてまで事を進められた秀司様のご苦心、ご覚悟は、いかほどであられたでしょう。

明治14(1881)年4月8日、秀司様は、お屋敷にてお出直しになりました。

おやさまは、秀司様の額を撫でて、「可愛相に、早く帰っておいで。」と、長年の労苦をねぎらわれました。

秀司様にせよ、こかん様にせよ、苦労を共になされたお子様方に対して、おやさまは、神一条の徹底を特に厳しくお仕込みになりました。我が子を台にして、後に道を歩む私たちが思案の順序を間違わないようにお教えくださったのです。

『稿本天理教教祖伝』には、「元初まりの道具衆の魂は、いついつ迄も元のやしきに留まり、生れ更り出更りして、一列たすけの上に働いて居られる。」と記されています。おやさまがご存命でおいでになるお屋敷で、秀司様やこかん様のお魂もまた、生まれ変わりを経ていつも働いてくださっていると思うと、私はとてもありがたく、心強く感じさせていただくのです。

今回のまとめ

プリントして学ぼう

参考年表

1798年
4月18日 教祖(中山みき)誕生

大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。

1810年
中山家にご入嫁

9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。

1838年
教祖「月日のやしろ」に定まる(立教)

10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。

1840年
「貧に落ち切れ」の神命により、家財道具などを施される

親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。

1853年
善兵衞様のお出直し・こかん様の神名流し・母屋の取り壊し

善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊し。ここから約10年間は、中山家にとって最も苦しい貧のどん底の期間にあたる。

1854年
をびや許しの始め

11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。

1864年
つとめ場所の普請

本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。

1864年
大和神社のふし

棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。

1861~1865年頃
お屋敷へ通う人が増えてくる

不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てきました。

1866年
「あしきはらひ…」の歌と手振りをお教え頂く

この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。

1869年
おふでさき ご執筆

明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされました。

1869年
秀司様 ご結婚

明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる

1872年
75日間の断食・別火別鍋を仰せ出される

断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される

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