第6回「立教①」

もくじ

01. 予兆

その予兆は、ちょうど1年前からありました。

天保8(1837)年10月26日、おやさまのご長男秀司様は、畑仕事の途中に突然左足に強い痛みを感じました。

早速医者に診せ、手当をしてもらいましたが、一向に痛みは治まりません。

そこで、人に勧められるままに、中野市兵衛という修験者しゅげんじゃ祈祷きとうをしてもらうことになりました。

修験者とは、山へこもって修行を行い悟りを得る人のことで、別名・山伏やまぶしとも言われます。修験者は、厳しい修行を経て、ある種の宗教的な能力を身に付けていると信じられていました。医者の手に負えない時には、修験者を通じて神に祈ってもらうのは、当時の病気療養のひとつの手段だったのです。文字通り神頼みです。

修験者の市兵衛さんに祈祷をしてもらうと、秀司様の足の痛みは一時的に治まりました。けれどもすぐにまた痛み出します。父親の善兵衞様は、何とか助けてやる方法はないかと市兵衛さんに相談しました。すると市兵衛さんから、お宅で寄加持よせかじをしてはどうか、との提案がありました。

寄加持とは、近所の人々にも集まってもらい、加持台と呼ばれる人に御幣ごへいを持たせ、さらに護摩焚ごまたきといって、お供えをして火をたいて祈祷を行うというような特別なものです。また、集まった人には食事を振るまい、近所の人にもお米を施すなどの慣例もあったので、寄加持を一回行えば相当な出費となります。

しかし、大事な跡取り息子を救うため、費用や手間を惜しんではいられません。中山家ではさっそく寄加持が行われ、以後、1年の間に9回も繰り返されました。それほど秀司様の足の痛みはひどかったのでしょうし、また、善兵衞様の我が子を思う気持ちもひとしおだったのです。

中山家にとって、どれほど大変な1年であったでしょう。けれどもそれは、ある出来事の予兆だったのです。

02. 啓示

天保9(1838)年10月23日の夜。この日もまた秀司様の足が痛み出しましたが、この時は併せて、父親の善兵衞様は眼に、母親のみき様には腰にと、三人にさわりが現れます。

これは大変と、急いで市兵衛さんを呼び、寄加持をすることになりましたが、いつも加持台になる女性がその時は留守でした。そこで、急遽みき様を加持台にして祈祷をすることになったのです。よほど切迫した状況であったということでしょう。

そうしたところ、祈祷の最中に、突然みき様のお口を通して、神々しい威厳に満ちた声で、次のようなお言葉が発せられました。

「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」

これこそ、親神様が初めて私たち人間に向けて発せられた第一声です。

その場にいた人々は、この突然起こった出来事に、いったい誰が何を言っているのかと驚きと戸惑いを隠せません。

とにかく大変なことになったと、中山家では親戚の人たちにも集まってもらい、相談を重ねます。

「元の神・実の神なんて神様は聞いたことがない。」「みきを神のやしろに貰い受けるとはどういう意味なのか。」などと話し合いを重ねますが、どう考えても到底お受けできるような内容ではありません。そこで、一同でお断りを申し上げます。けれども、

「誰が来ても神は退かぬ。今は種々と心配するは無理ないけれど、二十年三十年経ったなれば、皆の者成程と思う日が来る程に。」

「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」

と、親神様はげんとしたお言葉で一切お退きになりません。子供たちも、お言葉があるごとに、頭から布団をかぶり、互いに抱き付いてふるえて過ごしました。

こうしたやりとりが夜を徹して行われ、3日目を迎えました。みき様はこの間、食事もとらず、少しの休憩もなく、御幣を手に正座をしたまま神様のお言葉を告げられています。このままではみき様の命も危ないと心配されるほどのご様子です。

善兵衞様は、この深刻な状況に、事ここに至ってはお受けするしかないと、ついに10月26日午前8時頃、「みきを差上げます。」と答えられました。

今回のまとめ

プリントして学ぼう

参考年表

1798年
4月18日 教祖(中山みき)誕生

大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。

1810年
中山家にご入嫁

9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。

1838年
教祖「月日のやしろ」に定まる(立教)

10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。

1840年
「貧に落ち切れ」の神命により、家財道具などを施される

親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。

1853年
善兵衞様のお出直し・こかん様の神名流し・母屋の取り壊し

善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊し。ここから約10年間は、中山家にとって最も苦しい貧のどん底の期間にあたる。

1854年
をびや許しの始め

11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。

1864年
つとめ場所の普請

本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。

1864年
大和神社のふし

棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。

1861~1865年頃
お屋敷へ通う人が増えてくる

不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てきました。

1866年
「あしきはらひ…」の歌と手振りをお教え頂く

この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。

1869年
おふでさき ご執筆

明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされました。

1869年
秀司様 ご結婚

明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる

1872年
75日間の断食・別火別鍋を仰せ出される

断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される

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