第25回「元の屋敷でなされるべきこと」

01.風呂と宿屋業

道の広がりとともに、遠方からお屋敷にやってくる人も次第に増えてきました。

当時は、むやみに人を集めることが禁じられていたので、大勢の人がお屋敷へ出入りするのは、警察の取り締まりの対象となります。ややもすれば、おやさまや寄り来た人たちがとがめを受けるということにもつながりかねません。

そこで、秀司様をはじめ、おそばの者たちがいろいろと知恵を絞り、お屋敷の中で風呂屋と宿屋を営み、参拝者が出入りしても言い訳が立つようにしようということになりました。そして、当時の地方庁に願い出て、明治9(1876)年、その認可を受けました。

風呂屋といっても、板囲いをした小部屋を湯気で満たして身体を温める「蒸風呂(空風呂)」、今で言うサウナのような施設で、それが、つとめ場所の南側、ぢばのすぐ近くに作られました。また宿泊には、つとめ場所があてられたのではないかと思います。

しかし、おやさまは、こうした一時しのぎとも言えるやり方に、「親神が途中で退く」と、大変厳しくお止めになります。

しんちつが神の心にかなハねば いかほど心つくしたるとも

(十二 134)

蒸風呂や宿の営業は、警察への口実ともなり、また参拝者にも喜んでもらい、さらには多少なりとお屋敷の収入にもなる。ひいては中山家やおやさまを守ることになると、秀司様やおそばの人々は考えたのではないでしょうか。たしかに、これも親を思う一つの真実といえるでしょう。

けれども、それはあくまでも人間思案による表面的な考えで、親神様のお心にかなう真実ではない。

この人間創造の元の屋敷で本来すべきことは、世界一れつをたすけるためにつとめを勤め、たすけ一条に徹することである。そのことをしっかりと自覚して、どこまでも神一条の思案で親神様にお働きいただく道を歩んでほしいというのが、おやさまの思いであられたのではないでしょうか。

02.女鳴物のご教授

こうした中、おやさまは、つとめ完成の段取りを着々とお進めになられます。

明治10(1877)年の初めには、おつとめの女鳴物となる、琴、三味線、胡弓を御自らお教えになりました。最初に教えていただいたのは、琴は辻とめぎく、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライトで、それぞれ数え8歳、12歳、15歳の少女たちです。

琴、三味線、胡弓は、邦楽における伝統的な楽器で、「三曲」とも言われます。世間一般にもいろいろな流派がありますが、おやさまは、「世界から教えてもらうものは、何もない。この屋敷から教え出すので、理があるのや。」と仰せられ、御自らお教えくださいました。

飯降よしゑさんは、三味線を習われたとき、「稽古出来てなければ、道具の前にすわって、心で弾け。その心を受け取る。」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』54「心で弾け」)ともお仕込みいただかれましたが、このことは、おやさまがおてふりを教えられた時に「理を振るのや」と仰せられたことと通じるように思います。

つまり、おつとめの役割は、おてふりでも、鳴物でも、勤める者が親神様のお心に溶け込んで、一手一つに勤めることが何よりも大切だということです。「この屋敷から教え出す」と仰ったのも、決して奏法や技術だけのことではなく、親神様のお心を知り、思召に添う心の使い方を学ぶことが肝心だということだと思います。 また、それぞれが女鳴物を教えられた時の年齢は、いずれも現在の少年会員の年齢です。素直な心に教えられたとも言えるでしょうし、小さいうちから教えに馴染むことの大切さや、たとえ年若くとも、誰でもおつとめのお役を担えるのだということも、お教えくださっているように思います。

03.たまへ様のご誕生

もう一つ、同じ明治10年の2月にはうれしい出来事がありました。秀司様とまつゑ様の一子、たまへ様のご誕生です。

かねてより、おふでさきに、「なわたまへはやくみたいとをもうなら 月日をしへるてゑをしいかり」(七 72)と記されていましたが、このたび、親神様の深い思召により、魂のいんねんをもってお屋敷の人としてお生まれになりました。数え80歳をお迎えになったおやさまも、さぞ喜びになられたでありましょう。

今回のまとめ

プリントして学ぼう

参考年表

1798年
4月18日 教祖(中山みき)誕生

大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。

1810年
中山家にご入嫁

9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。

1838年
教祖「月日のやしろ」に定まる(立教)

10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。

1840年
「貧に落ち切れ」の神命により、家財道具などを施される

親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。

1853年
善兵衞様のお出直し・こかん様の神名流し・母屋の取り壊し

善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊し。ここから約10年間は、中山家にとって最も苦しい貧のどん底の期間にあたる。

1854年
をびや許しの始め

11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。

1864年
つとめ場所の普請

本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。

1864年
大和神社のふし

棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。

1861~1865年頃
お屋敷へ通う人が増えてくる

不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てきました。

1866年
「あしきはらひ…」の歌と手振りをお教え頂く

この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。

1869年
おふでさき ご執筆

明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされました。

1869年
秀司様 ご結婚

明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる

1872年
75日間の断食・別火別鍋を仰せ出される

断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される

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