01.風呂と宿屋業
道の広がりとともに、遠方からお屋敷にやってくる人も次第に増えてきました。
当時は、むやみに人を集めることが禁じられていたので、大勢の人がお屋敷へ出入りするのは、警察の取り締まりの対象となります。ややもすれば、おやさまや寄り来た人たちが咎めを受けるということにもつながりかねません。
そこで、秀司様をはじめ、おそばの者たちがいろいろと知恵を絞り、お屋敷の中で風呂屋と宿屋を営み、参拝者が出入りしても言い訳が立つようにしようということになりました。そして、当時の地方庁に願い出て、明治9(1876)年、その認可を受けました。
風呂屋といっても、板囲いをした小部屋を湯気で満たして身体を温める「蒸風呂(空風呂)」、今で言うサウナのような施設で、それが、つとめ場所の南側、ぢばのすぐ近くに作られました。また宿泊には、つとめ場所があてられたのではないかと思います。
しかし、おやさまは、こうした一時しのぎとも言えるやり方に、「親神が途中で退く」と、大変厳しくお止めになります。
しんちつが神の心にかなハねば いかほど心つくしたるとも
(十二 134)
蒸風呂や宿の営業は、警察への口実ともなり、また参拝者にも喜んでもらい、さらには多少なりとお屋敷の収入にもなる。ひいては中山家やおやさまを守ることになると、秀司様やおそばの人々は考えたのではないでしょうか。たしかに、これも親を思う一つの真実といえるでしょう。
けれども、それはあくまでも人間思案による表面的な考えで、親神様のお心にかなう真実ではない。
この人間創造の元の屋敷で本来すべきことは、世界一れつをたすけるためにつとめを勤め、たすけ一条に徹することである。そのことをしっかりと自覚して、どこまでも神一条の思案で親神様にお働きいただく道を歩んでほしいというのが、おやさまの思いであられたのではないでしょうか。
02.女鳴物のご教授
こうした中、おやさまは、つとめ完成の段取りを着々とお進めになられます。
明治10(1877)年の初めには、おつとめの女鳴物となる、琴、三味線、胡弓を御自らお教えになりました。最初に教えていただいたのは、琴は辻とめぎく、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライトで、それぞれ数え8歳、12歳、15歳の少女たちです。

琴、三味線、胡弓は、邦楽における伝統的な楽器で、「三曲」とも言われます。世間一般にもいろいろな流派がありますが、おやさまは、「世界から教えてもらうものは、何もない。この屋敷から教え出すので、理があるのや。」と仰せられ、御自らお教えくださいました。
飯降よしゑさんは、三味線を習われたとき、「稽古出来てなければ、道具の前に坐って、心で弾け。その心を受け取る。」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』54「心で弾け」)ともお仕込みいただかれましたが、このことは、おやさまがおてふりを教えられた時に「理を振るのや」と仰せられたことと通じるように思います。
つまり、おつとめの役割は、おてふりでも、鳴物でも、勤める者が親神様のお心に溶け込んで、一手一つに勤めることが何よりも大切だということです。「この屋敷から教え出す」と仰ったのも、決して奏法や技術だけのことではなく、親神様のお心を知り、思召に添う心の使い方を学ぶことが肝心だということだと思います。 また、それぞれが女鳴物を教えられた時の年齢は、いずれも現在の少年会員の年齢です。素直な心に教えられたとも言えるでしょうし、小さいうちから教えに馴染むことの大切さや、たとえ年若くとも、誰でもおつとめのお役を担えるのだということも、お教えくださっているように思います。
03.たまへ様のご誕生
もう一つ、同じ明治10年の2月にはうれしい出来事がありました。秀司様とまつゑ様の一子、たまへ様のご誕生です。
かねてより、おふでさきに、「なわたまへはやくみたいとをもうなら 月日をしへるてゑをしいかり」(七 72)と記されていましたが、このたび、親神様の深い思召により、魂のいんねんをもってお屋敷の人としてお生まれになりました。数え80歳をお迎えになったおやさまも、さぞ喜びになられたでありましょう。

今回のまとめ

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参考年表