第9回「貧に落ち切れ②」

もくじ

01.貧に落ち切られたわけ

おやさまが貧に落ち切られたのは、決して貧乏することが目的ではありません。

親神様がおやさまを月日のやしろに貰い受けられたのは、世界一れつの人間を余さずたすけあげるためです。

「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である。」

と仰せられたとおり、まずは目の前の困っている人に、徹底して救いの手を差し伸べられました。

さまざまな物を施し、手放していかれたのは、親として子供可愛い故の行いであることは言うまでもありませんが、物への執着を去り、困っている人の境遇に自らも身を置くことで、相手の気持ちをより理解し、相手からも心の底からもたれきってもらうことが、人だすけの基本となることを身をもって教えてくださったとも言えるでしょう。

さらには、親神様によるこの度のたすけは、これまでにあった神仏の教えとは根本的に違うたすけの道ですから、その中心となる中山家のやしきは、旧来の建物を含め、一切合切あり方を一新し、世界たすけの根源たるにふさわしく生まれ変わる必要があったのかもしれません。

いずれにせよ、この道の教えを伝え弘めていく土台作りとして、どうしてもしなくてはならないことだったのです。

02.「親神様が結構にお与え下されてある」

貧の道中を歩まれる中、おやさまは、次のような言葉をおかけになりながら、お子たちを励ましておられます。

「お月様が、こんなに明るくお照らし下されて居る。」

「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。」

「どれ位つまらんとても、つまらんと言うな。乞食はささぬ。」

どんな人も、いかなる境遇にあっても、お日さまやお月さま、つまり親神様は隔てなく世界を照らしてくださっている。

また、「水を飲めば水の味がする」と、すべては親神様のご守護によって与えられていることを分かりやすく教え、さらには、どんなに辛い状況でも、親神様のお心に沿っていれば、「乞食はささぬ」、つまり、必要なものは必要な分だけきちんと与えてくださることを保証すると教えてくださっています。

このように、貧に落ち切ることの一面には、物事の本質に目を向け、ご守護のありがたさを素直に、純粋に感じやすい状況に身を置かれたということもあるように思います。そして、世間からいかに嘲笑されようとも、揺らぐことなく、一貫してどこまでも親神様の思召のままに徹する姿をお示しくださいました。

おやさまとご家族の谷底の生活は、およそ20年にわたります。それはとても長い年月です。いろんな日があったでしょう。けれどもおやさまは、人に満足を与えることを何よりの喜びとして毎日をお通りになりました。

まさに、ご自身のお姿を通して、親神様のご守護のありがたさを日々感じて、親神様にもたれ切れば、どこにいようが、どんな状況にあろうが、そこから喜びを見出すことができ、また人にも喜びを与えることができると、力強くお示しくださっているのです。

ですから、私は、この間のおやさまやご家族のご様子を思い浮かべるとき、日々の生活はとても大変であったでしょうが、親神様におもたれしていれば何も心配ないと明るく和やかにお過ごしになっているご様子を思い描くのです。

そして何より、自分の人生で見せられるさまざまな出来事の中で、どんな苦しいことや落ち込むようなことがあっても、「おやさまだって貧の道中をお通りになったんだ」と思うと、心に力が湧いてきます。そしておやさまやご家族が、そんな中を神一条に通りきってくださったからこそ、今のお道や私たちがあると思うと、心の底からありがたい気持ちが込み上げてくるのです。

今回のまとめ

プリントして学ぼう

参考年表

1798年
4月18日 教祖(中山みき)誕生

大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。

1810年
中山家にご入嫁

9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。

1838年
教祖「月日のやしろ」に定まる(立教)

10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。

1840年
「貧に落ち切れ」の神命により、家財道具などを施される

親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。

1853年
善兵衞様のお出直し・こかん様の神名流し・母屋の取り壊し

善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊しが行われる。

1854年
をびや許しの始め

11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。

1864年
つとめ場所の普請

本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。

1864年
大和神社のふし

棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。

1861~1865年頃
お屋敷へ通う人が増えてくる

不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てくる。

1866年
「あしきはらひ…」の歌と手振りをお教え頂く

この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。

1869年
おふでさき ご執筆

明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされる。

1869年
秀司様 ご結婚

明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる。

1872年
75日間の断食・別火別鍋を仰せ出される

断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される。

1872年
高山布教

政治権力を持ち、財力を持ち、身分地位の高い人々のことを「高山」と呼ばれ、高山布教が進められる。

1874年
赤衣を召される

12月26日に、初めて赤衣をお召しになられ、着物、足袋や草履の鼻緒に至るまで、すべて赤色のものを身に付けられました。

1875年
ぢば定め

6月29日(陰暦5月26日)、おやさまは、かんろだいの「ぢば」を初めて示されました。

1875年
こかん様のお出直し

おやさまの五女としてお生まれになったこかん様が、9月27日にお出直しになられる。

1877年
女鳴物の三曲を教えられる

おつとめの女鳴物となる、琴、三味線、胡弓をおやさま御自らお教えになる。

1880年
天輪王講社の開筵

官憲からの干渉圧迫を逃れるため、地福寺の出張所という扱いでお屋敷に「転輪王講社」が設置される。

1881年
秀司様のお出直し

おやさまのご長男としてお生まれになられた秀司様は、4月8日、お屋敷にてお出直しになる。

1880年
眞之亮がお屋敷へ移り住む

眞之亮様は、明治13年、15歳の年にご生家の梶本家を離れ、中山家の跡継ぎとしてお屋敷で常住なされるようになりました。

1880年
かんろ台の石普請が始まる

かんろだいの石普請が始まりましたが頓挫し、翌年、警察が二段までできていたかんろだいを没収しました。

1880年頃
「こふきを作れ」とお命じになられ

明治13・14年頃から、おやさまは、お側の人々に「こふきを作れ」とお命じになられる。

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