第33回「教会設置運動」

01. 教会設置の動き

おやさまにご迷惑をおかけせずに、親神様の教えを誰はばかることなく信仰するにはどうすればよいか。お屋敷が厳重な取り締まりを受け、おやさまに御苦労をおかけするのは、ひとえに、教会が公認されていないからである——。
こうした人々の切迫した気持ちから沸き起こっていったのが、教会設置運動です。

明治14(1881)年頃には、大阪や京都で、有力な信者らが教会公認の手続書を提出したり、また、官憲の取り締まりを逃れるために、当時流行していた道徳思想である心学道話の講習所を装って当局に出願したりと、さまざまな試みがなされていました。

お屋敷でも、激しい迫害干渉の中、人々は教会の公認を早く得たいと焦ります。そうして、明治17(1884)年には、当時信者たちの定宿じょうやどとしていた場所に教会創立事務所の看板をかけて、積極的な活動を始めました。

02. しんに肉を巻け

教会設置に向けては、眞之亮様や主だった信者の他に、教えの理解は浅いながらも、その道に長けた知識や経験を持つ人も協議に加わりました。
ある日の会議中、会長の選任方法や役員の給料などが議論されていたときに、出席者の一人が激しい腹痛を起こして倒れました。おやさまにお伺いをすると、

「さあ/\今なるしんばしらはほそいものやで、なれど肉の巻きよで、どんなゑらい者になるやわからんで。」

とのお言葉がありました。

当時、眞之亮様は数え20歳であられましたが、まだ若年で頼りないとのことからか、会長は選挙で決めてはどうかとの議論が、この時行われていたのです。けれども、おやさまは、あくまでも親神様の思召によって定められている「しんばしらの理」を立て切り、周囲の者がしっかりと支え切る決意でなければならないと、お仕込みになりました。

また、明治18(1885)年5月には、神道しんとう本局から直轄六等教会の許可を得て、眞之亮様以下十数名が教導職(宗教指導者としての資格)を受けるまで至りました。が、これはまだ公式な教会設置許可ではありません。公許を得るためには、地方庁の認可が必要です。そこで、またしても眞之亮様以外の人物を代表者に出願をしますが、2度に渡って却下されました。この時、おやさまに思召を伺うと、

「しんは細いものである。真実の肉まけバふとくなるで。」

と、改めて、しんばしらに誠真実の肉を巻けと、念を押すようなお言葉がありました。
この教会設置運動を通じて、真柱様を芯にした物事の運び方を繰り返しお教えくだされたことは、道の先行きを見据えての重要なお仕込みであると思案できます。

03. 神一条の道と応法の道

公認をめぐる動きは、これまでも、秀司様による吉田神祇官領への出願や、転輪王講社の設置など、何度か試みられてきたことですが、おやさまは、その都度厳しくお止めになっていました。

おやさまが終始お求めになられたのは、どこまでも親神様の思召のままに、よろづたすけのおつとめを勤めることです。ぢば、かんろだいを囲み、つとめ人衆が親神様のお心に溶け込み、一手一つにつとめを勤めればどんなたすけも請け合うという、神一条の道です。
他方、人々が腐心している教会設置は、親を思う子どもの真実心から発しているとはいえ、いわば人間思案を先に立て、世上の慣習や法律に則った方法を模索する、応法の道です。

その後も、眞之亮様を中心に教会設置に向けた動きは進められていきましたが、なかなか地方庁の認可は得られませんでした。これは、親神様の大いなる思召によるものと思います。

こうすれば親は喜んでくれるはずだと考える事柄が、本当に親の心に沿っているかといえば、必ずしもそうでないということは、私たちの日常にもあるように思います。

二代真柱様は、親神様の思召、おやさまの教え以外は、すべて応法であるとも教えてくださいました。
社会の中で暮らす私たちは、無意識のうちに応法に流されやすいといえます。だからこそ、折に触れて、今の自分の姿をおやさまはどのようにご覧になっているか、おやさまのお心と自分の考えの間に隙はないだろうか、と振り返り、思案して、日頃から親神様の思召に沿う神一条の通り方を心掛けることが大切だと思います。

今回のまとめ

プリントして学ぼう

参考年表

1798年
4月18日 教祖(中山みき)誕生

大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。

1810年
中山家にご入嫁

9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。

1838年
教祖「月日のやしろ」に定まる(立教)

10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。

1840年
「貧に落ち切れ」の神命により、家財道具などを施される

親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。

1853年
善兵衞様のお出直し・こかん様の神名流し・母屋の取り壊し

善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊しが行われる。

1854年
をびや許しの始め

11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。

1864年
つとめ場所の普請

本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。

1864年
大和神社のふし

棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。

1861~1865年頃
お屋敷へ通う人が増えてくる

不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てくる。

1866年
「あしきはらひ…」の歌と手振りをお教え頂く

この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。

1869年
おふでさき ご執筆

明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされる。

1869年
秀司様 ご結婚

明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる。

1872年
75日間の断食・別火別鍋を仰せ出される

断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される。

1872年
高山布教

政治権力を持ち、財力を持ち、身分地位の高い人々のことを「高山」と呼ばれ、高山布教が進められる。

1874年
赤衣を召される

12月26日に、初めて赤衣をお召しになられ、着物、足袋や草履の鼻緒に至るまで、すべて赤色のものを身に付けられました。

1875年
ぢば定め

6月29日(陰暦5月26日)、おやさまは、かんろだいの「ぢば」を初めて示されました。

1875年
こかん様のお出直し

おやさまの五女としてお生まれになったこかん様が、9月27日にお出直しになられる。

1877年
女鳴物の三曲を教えられる

おつとめの女鳴物となる、琴、三味線、胡弓をおやさま御自らお教えになる。

1880年
天輪王講社の開筵

官憲からの干渉圧迫を逃れるため、地福寺の出張所という扱いでお屋敷に「転輪王講社」が設置される。

1881年
秀司様のお出直し

おやさまのご長男としてお生まれになられた秀司様は、4月8日、お屋敷にてお出直しになる。

1880年
眞之亮がお屋敷へ移り住む

眞之亮様は、明治13年、15歳の年にご生家の梶本家を離れ、中山家の跡継ぎとしてお屋敷で常住なされるようになりました。

1880年
かんろ台の石普請が始まる

かんろだいの石普請が始まりましたが頓挫し、翌年、警察が二段までできていたかんろだいを没収しました。

1880年頃
「こふきを作れ」とお命じになられ

明治13・14年頃から、おやさまは、お側の人々に「こふきを作れ」とお命じになられる。

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