第34回「最後の御苦労」

01. 最後の御苦労

明治19(1886)年2月18日、ある講社の信者たちが、十二下りをつとめさせていただきたいとお屋敷へ大勢やってきました。

お屋敷では、警察の取り締まりも厳しく、おやさまにご迷惑が掛かると断りを入れたところ、勇み切った一部の人が、門前にあった宿屋の2階でてをどりを始めました。

すると、案の定、それを察知した巡査が来て、信者を解散させ、そのままお屋敷へも踏み込み、取り調べの上、おやさまと眞之亮様、他2名を櫟本の警察分署に引致いんちしました。

これが、おやさまにとって、最後の御苦労となりました。

季節は一年で最も寒い時期。しかもこの時は、三十年来の寒さであったといわれます。そんな中、おやさまは15日間にわたり櫟本分署に留置されました。

この時の様子は、『稿本天理教教祖伝』第九章282頁から292頁にかけて詳しく記されていますが、拝読させていただくにつけ胸に迫るものがあります。

おやさまは、ご拘留中であっても、理を示すべきときには厳然と、しかし、常は誰に対しても隔てなく優しくお接しになられ、一れつ人間の親なればこそのご態度は、どこにお出でになっても変わりありません。

一方、お側の人々にとっては、八十九歳というご高齢のおやさまが御苦労くださる姿に、身を切られ、胸をかきむしられる思いであったでしょう。ご拘留中は気が気でなく、自分たちに出来ることはどんな些細なことでもさせてもらいたいと、心を込めてお世話をなされました。

御苦労くださるおやさまのご様子や当時の先人の気持ちは、なかなか想像しにくいと思いますが、自分がおやさまのお供をさせていただいているつもりになって、思いをせつつ読んでみてもらえればと思います。

02. 五ヶ条の請書

さて、お道は教会設置運動の過程で、明治18(1885)年に神道しんとう本局より直轄六等教会の認可を受けていましたが、明治19(1886)年5月28日には、その神道本局の管長代理と他3名がお屋敷にやってきました。一行は、おやさまにご面会し、また、取次からも教理を聞き、さらに、てをどりの検分などをします。

そしてこの時、眞之亮様他6名の連名で、お屋敷から神道本局管長代理宛に五ヶ条の請書が提出されました。

この請書は、「奉教主神は神道教規に依るべき事」や「創世の説は記紀の二典に依るべき事」「人は万物の霊たり魚介の魂と混同すべからざる事」など、5つの項目を堅守するという内容のもので、つまりは、親神・天理王命を祀らず、元初まりの話を説かないなど、教えの核たる部分を曲げることを約束させられる屈辱的なものでした。

おやさまは、このような中において、7月21日には、

「四方暗くなりて分りなき様になる、其のときつとめの手、曖昧なることにてはならんから、つとめの手、稽古せよ。」

と仰せられます。

容易ならぬ時が迫っていることを示唆されつつ、何よりも大切なのは教え通りにおつとめを勤めることだと急き込まれました。

03. ご容態の急変

年が明け、明治20(1887)年1月1日。

おやさまは、夕方、お風呂をお召しになりましたが、そこからお出になる時、ふとよろめかれました。お伺いすると、

「これは、世界の動くしるしや。」

との仰せです。

その時は、そのお言葉の意味も深く解さないままに、おやさまのお身体を案じつつ数日を過ごしていたところ、1月4日になり、急におやさまのお身上が差し迫ってくるという事態となりました。

慌てた人々は、すでに親神様のお言葉を取り次ぐ許しをいただいておられた飯降伊蔵先生を通じ、親神様の思召をお尋ねしました。すると、厳しい口調で、次のような意味のおさしづがありました。

「もう時期が切迫している。お前たちにはこれまでどのような事も聞かせてきたが、全く分かっていない。どれだけ言っても真から理解する者がいない。これが残念である。親神の言っていることを疑いながら暮らしている。親神の言うことが嘘なら、四十九年前、即ち天保九年より今までこの道が続いているはずがないではないか。今まで親神が言ってきたことは実際に現れているであろう。そのことを以てよく思案してみよ。このままではおやさまは息を引き取ってしまうかもしれないぞ。」(大意)

そして、実際におやさまは、息をせられなくなり、お身上が急に冷たくなられました。

今回のまとめ

プリントして学ぼう

参考年表

1798年
4月18日 教祖(中山みき)誕生

大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。

1810年
中山家にご入嫁

9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。

1838年
教祖「月日のやしろ」に定まる(立教)

10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。

1840年
「貧に落ち切れ」の神命により、家財道具などを施される

親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。

1853年
善兵衞様のお出直し・こかん様の神名流し・母屋の取り壊し

善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊しが行われる。

1854年
をびや許しの始め

11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。

1864年
つとめ場所の普請

本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。

1864年
大和神社のふし

棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。

1861~1865年頃
お屋敷へ通う人が増えてくる

不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てくる。

1866年
「あしきはらひ…」の歌と手振りをお教え頂く

この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。

1869年
おふでさき ご執筆

明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされる。

1869年
秀司様 ご結婚

明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる。

1872年
75日間の断食・別火別鍋を仰せ出される

断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される。

1872年
高山布教

政治権力を持ち、財力を持ち、身分地位の高い人々のことを「高山」と呼ばれ、高山布教が進められる。

1874年
赤衣を召される

12月26日に、初めて赤衣をお召しになられ、着物、足袋や草履の鼻緒に至るまで、すべて赤色のものを身に付けられました。

1875年
ぢば定め

6月29日(陰暦5月26日)、おやさまは、かんろだいの「ぢば」を初めて示されました。

1875年
こかん様のお出直し

おやさまの五女としてお生まれになったこかん様が、9月27日にお出直しになられる。

1877年
女鳴物の三曲を教えられる

おつとめの女鳴物となる、琴、三味線、胡弓をおやさま御自らお教えになる。

1880年
天輪王講社の開筵

官憲からの干渉圧迫を逃れるため、地福寺の出張所という扱いでお屋敷に「転輪王講社」が設置される。

1881年
秀司様のお出直し

おやさまのご長男としてお生まれになられた秀司様は、4月8日、お屋敷にてお出直しになる。

1880年
眞之亮がお屋敷へ移り住む

眞之亮様は、明治13年、15歳の年にご生家の梶本家を離れ、中山家の跡継ぎとしてお屋敷で常住なされるようになりました。

1880年
かんろ台の石普請が始まる

かんろだいの石普請が始まりましたが頓挫し、翌年、警察が二段までできていたかんろだいを没収しました。

1880年頃
「こふきを作れ」とお命じになられ

明治13・14年頃から、おやさまは、お側の人々に「こふきを作れ」とお命じになられる。

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