第31回「度重なるふし」

01. 毎日のつとめ

明治15(1882)年5月にかんろだいの石が没収されて以後も、お屋敷に対する官憲の圧迫は強まるばかりでしたが、おやさまは少しも頓着なさらず、ひたすらにおつとめの実行をお急き込みになりました。

そして、10月12日から26日(陰暦9月1日から15日)には、おやさま自らつとめ場所の北の上段の間にお出ましの上、毎日おつとめが勤められました。

02. 蒸風呂、宿屋、転輪王講社の取り払い

一方、この頃、大阪で世間を賑わせるような出来事が起こりました。我孫子あびこ事件と呼ばれるものです。

同年9月半ば、大阪泉北の当時我孫子と呼ばれていた地域で、ある信者がおたすけにあたった相手が亡くなり、それが刑事事件に発展したという出来事で、新聞にも大きく取り上げられました。

おやさまは、これに対し、

「さあ海越え山越え/\/\、あっちもこっちも天理王命、響き渡るで響き渡るで。」

と仰せになります。

そうしたところ、またもや大阪で、今度は泉田藤吉という熱心な信者が、警官を相手に激論するという出来事が起こります。

不思議なことに、この激論のあった同時刻、お屋敷では、

「さあ/\屋敷の中/\。むさくるしいてならん/\。すっきり神が取払ふで/\、さあ十分六だい何にも言ふ事ない、十分八方広がる程に。さあこの所より下へも下りぬもの、何時何処いつどこへ神がつれて出るや知れんで。」

とのお言葉がありました。

毎日おつとめを勤めている最中の事柄に、お屋敷の人々も心配をしていたところ、10月27日に警察の立ち入りがあり、その指示によって転輪王講社の曼陀羅(※)まんだら祭祀さいし用具一切が取り払われました。

それだけでなく、さらにその2日後の10月29日には、奈良警察署よりおやさまと他5名に対し呼出しがあり、そのまま監獄署に10日間勾留こうりゅうされました。

【曼陀羅・まんだら】

仏教の教えや悟りの世界を象徴するものとして、一定の方式に基づいて、諸仏、菩薩ぼさつおよび神々を繊羅せんらして描いた図。

03. 度重なるふし

思えば、おやさまは、この年の初めから、「合図立て合い/\」としばしば仰せられたとのことですが、まさにそのお言葉通り、おやさまの御身に、かんろだいに、ご家族や周囲の人々に、次から次へとさまざまな形で大きな事情をお見せいただいたのでした。

おやさまは、そのような中で、

「親神が、むさくろしいて/\ならんから取り払わした。」

「連れに来るのも親神なら、呼びに来るのも親神や。ふしから大きいなるのや。」

「何も、心配は要らんで。この屋敷は親神の仰せ通りにすればよいのや。」

と、すべては親神様の思召によって現れてくることであるから、その中から思召を悟り、どこまでも親神様におもたれして、神一条の思案と行動をもって歩んでいくよう、繰り返しお仕込みになりました。

そうして数々のふしを経て、結果的には、この明治15年の11月に蒸風呂業も宿屋業も廃業し、12月には地福寺との関係を正式に断って、お屋敷の中は、おやさまの思召どおりの本来の姿へと戻っていくことになりました。

04. ふしを通じたお急き込み

この明治15年は、おやさまのひながたの中でも、一つの大きな区切りとなる年と言えます。

かんろだい建設の頓挫、つとめの地歌の変更、おふでさきの擱筆かくひつ、眞之亮様の家督相続、まつゑ様のお出直、飯降伊蔵のお屋敷への入り込み、相次ぐふしとおやさまの御苦労、蒸風呂・宿屋廃業、転輪王講社の解消など、さまざまな出来事が次から次へと現れました。

おやさまは、こうしたふしが相次ぐ中で、一れつ人間の心を澄ますことを強くお急き込みになります。そして、取次となる者を仕込み、世界たすけを一段と積極的に推し進めようとなされます。

「合図立て合い」とは、次々とあちこちにさまざまな出来事が現れることを言いますが、どれも親神様の思召によってお見せいただく事柄です。

私たちの身にも、さまざまなふしが重なって現れるということはありますが、考えてみれば、それだけ重大な時旬だとお知らせくださっているとも悟れますし、また、あちらこちらから芽を出すご守護を与えてやろうとの親心とも思案することができます。

「何も、心配は要らんで。この屋敷は親神の仰せ通りにすればよいのや。」

とのお言葉にもたれて、やがて必ず出てくる芽を楽しみに、足元の事柄に一つひとつ勇んで掛からせていただくことが大切だと思います。

今回のまとめ

プリントして学ぼう

参考年表

1798年
4月18日 教祖(中山みき)誕生

大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。

1810年
中山家にご入嫁

9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。

1838年
教祖「月日のやしろ」に定まる(立教)

10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。

1840年
「貧に落ち切れ」の神命により、家財道具などを施される

親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。

1853年
善兵衞様のお出直し・こかん様の神名流し・母屋の取り壊し

善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊しが行われる。

1854年
をびや許しの始め

11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。

1864年
つとめ場所の普請

本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。

1864年
大和神社のふし

棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。

1861~1865年頃
お屋敷へ通う人が増えてくる

不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てくる。

1866年
「あしきはらひ…」の歌と手振りをお教え頂く

この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。

1869年
おふでさき ご執筆

明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされる。

1869年
秀司様 ご結婚

明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる。

1872年
75日間の断食・別火別鍋を仰せ出される

断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される。

1872年
高山布教

政治権力を持ち、財力を持ち、身分地位の高い人々のことを「高山」と呼ばれ、高山布教が進められる。

1874年
赤衣を召される

12月26日に、初めて赤衣をお召しになられ、着物、足袋や草履の鼻緒に至るまで、すべて赤色のものを身に付けられました。

1875年
ぢば定め

6月29日(陰暦5月26日)、おやさまは、かんろだいの「ぢば」を初めて示されました。

1875年
こかん様のお出直し

おやさまの五女としてお生まれになったこかん様が、9月27日にお出直しになられる。

1877年
女鳴物の三曲を教えられる

おつとめの女鳴物となる、琴、三味線、胡弓をおやさま御自らお教えになる。

1880年
天輪王講社の開筵

官憲からの干渉圧迫を逃れるため、地福寺の出張所という扱いでお屋敷に「転輪王講社」が設置される。

1881年
秀司様のお出直し

おやさまのご長男としてお生まれになられた秀司様は、4月8日、お屋敷にてお出直しになる。

1880年
眞之亮がお屋敷へ移り住む

眞之亮様は、明治13年、15歳の年にご生家の梶本家を離れ、中山家の跡継ぎとしてお屋敷で常住なされるようになりました。

1880年
かんろ台の石普請が始まる

かんろだいの石普請が始まりましたが頓挫し、翌年、警察が二段までできていたかんろだいを没収しました。

1880年頃
「こふきを作れ」とお命じになられ

明治13・14年頃から、おやさまは、お側の人々に「こふきを作れ」とお命じになられる。

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