01.断食
おやさまが断食をなされた様子は、『稿本天理教教祖伝』にいくつか記されています。
慶応元年の秋に針ケ別所村の助造宅へ行かれた時は、約30日間の断食の後でした。また、明治2年には、おふでさき第一号、第二号の御執筆に続き、4月末から6月初めにかけて、38日間断食をなされました。
明治5(1872)年6月初めからは、75日に亘って断食をなされました。このときは麦や米などの穀物を一切断ち、また煮炊きした物も何一つ召し上らず、ただ水と少量の味醂と生野菜とを召し上るだけで、約2か月半をお過ごしになられました。

この間の6月18日には、櫟本村の梶本家へ嫁いでおられた三女おはる様がお出直しになります。そうした悲しみ事の中も断食は続き、開始より30日余り経った頃には、願い出により、約16㎞離れた若井村の松尾市兵衛宅へおたすけに出向かれました。
滞在中の松尾宅でも水と塩だけしか召し上がらず、周囲は心配いたしますが、おやさまは、「わしは、今、神様の思召しによって、食を断っているのや。お腹は、いつも一杯や。」と仰せられ、お元気な様子は変らずに、二週間ほど滞在されました。
お帰りになってからも、ひと月ほど断食は続き、終えられた後には、水を満たした三斗樽(65㎏程)を楽々と持ち運ばれました。

おやさまの断食は、月日のお心のままになされることで、その神意ははっきりとは分かりませんが、こうした人間離れした姿を目の当たりにした人々は、おやさまは確かに月日のやしろであられる、神様であられるとの実感を、より強くしたのではないかと思います。
02.別火別鍋
この75日間の断食を終えられて間もない9月、おやさまは「別火別鍋」と仰せられました。おやさまの召し上がられる食べ物は、一同の者とは分けて、別の火、別の鍋を用いて調理するようにとのご指示です。
お一人分だけ特別に分けて調理をするのは、手間も時間もかかります。しかし、見方を変えると、それだけ心を込めてお作りすることができるといえます。
こうした断食や別火別鍋ということを通じて、常におやさまは月日のやしろであられるとの理を、はっきりと示すとともに、特にお側でお仕えする者こそ、絶えずそのことを意識して誠真実の心で勤めるようにと、仕込んでくださったのではないかとも思案します。
現在でも、おやさまのお食事は、教祖殿に隣接する附属家という建物の中で、別火別鍋で作られます。全国各地からおやさまに召し上がっていただきたいとお供えされたものを、その真心が届くように、丁寧に心を込めて調理して、お召し上がりいただくのです。
03.進められるつとめの段取り
このようにおやさまは、そのお立場の理を明確に示されて、周囲の人々に確固たる信仰信念を促しつつ、よろづたすけの根本の道であるつとめの完成に向けての段取りを着実に進めていかれます。
明治6(1873)年には、飯降伊蔵に命じて、六角の棒の上下に六角の板が付いたものを作らせ、かんろだいの雛型を示されます。
また、おやさまのご実家の兄・前川杏助さんには、かぐらづとめの時に被るお面、「かぐら面」の製作を依頼されていましたが、明治7(1874)年6月18日に、そのお面を前川家にお迎えに行かれました。以降、お屋敷では、月の26日には、お面をつけてかぐらづとめ、次いでてをどりが賑やかに勤められました。
そしていよいよ明治8(1875)年には、かんろだいの据わるべき「ぢば」が明かされます。
これらの段取りと呼応するように、明治2年以来お筆が止まっていたおふでさきのご執筆を、4年ぶりに再開なされました。しかも、再開後の約2年間のあいだに、第三号から第十一号までの、実におふでさき全体の約55%にあたる分量をお記しになりました。
時あたかも明治政府による宗教政策が活発化する中、おやさまはより積極的にたすけの道をつけに掛かられるのです。
今回のまとめ

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参考年表