第35回「月日がありてこの世界あり」

01. もうさしづはしないで

明治20(1889)年1月4日、親神様の厳しいお言葉とともに、おやさまが息をせられなくなった様子に驚いた人々は、かねてからおつとめを急き込まれていたにも関わらず、警察の干渉を恐れて実行せずにいたことを強く反省します。そして、翌1月5日から夜中に門を閉め、ひそかにおつとめを勤め始めました。

1月8日には、教会設置運動を進めていた人々が夜通し相談し、「世界並みの事二分、神様の事八分、心を入れてつとめをなす事、こふき通りに十分いたす事」と心を定めます。仰せ通りに神一条に通るためにも、早く教会設置を成し遂げねばと焦る人々の精いっぱいの決断であったでしょう。その決意をお受け取り下されてか、明くる9日には、教祖のご様子も少し良くなられました。

しかし、10日になると、またまた教祖のご気分がすぐれません。そこで人々は、どうすればおやさまのお身上がよくなりましょうかと親神様にお尋ねします。

すると、「これまでに言うべきことはすべて言ってきている。(中略)もう、どうせよこうせよというさしづはしない。それぞれの心にてしっかりと悟りとれ。」(大意)とのお言葉が、飯降伊蔵先生を通してありました。

このお言葉に一同は驚き、直ちにおつとめを勤めようと相談の上、その旨を眞之亮様に申し上げました。が、眞之亮様は「いずれ考えた上で」と、はっきりと態度を示されません。

おやさまのご容態が差し迫ってきているこの状況で、おつとめを勤めて、もし警察が乗り込んできたら…。眞之亮様の胸の内は、どれだけお苦しみであったでしょう。

しかし、いつまでも逡巡してばかりはいられない。この上は、心に掛かることをありのままおやさまに申し上げようと、1月13日の午前3時ごろ、眞之亮様は、梶本松次郎、前川菊太郎の2名を伴い、おやさまの枕元に進んでお伺いなされました。

02. 1月13日の問答

このとき、眞之亮様は、終始、国の掟に従わざるを得ない状況下で、仰せ通りにおつとめを勤めることが難しいことを、おやさまに必死に訴えられました。

そして、「毎夜おつとめの稽古をして、しっかり手の揃うまで猶予ゆうよをお願い致したい。」「講習所を立てて、おつとめの出来るようにさせてもらいたい。」「教会本部をお許し下された上は、いかようにも神様の仰せ通り致します。」などと、あらゆる手立てを挙げながら、おつとめを勤める猶予ゆうよを願われます。ひとえに、おやさまをお守りしたいゆえからです。

そうした願い出に、おやさまは、「今直ぐにつとめを勤めるというのは、一見難しいように思うだろうが、難しい中を通るからこそ、その真実を親神は受け取るのである。それは、立教以来の道すがらを見れば分かるであろう。」「誠真実を尽くすところに、親神様の真実の働きがある。」と、一つひとつ丁寧にお答えなされます。

その上で、今の状況を「抜き差しならぬ」と仰せになり、ここに至っては何の猶予ゆうよもできない、心を定めておつとめをせよと迫られました。

03. 月日がありてこの世界あり

眞之亮様は、さらに踏み込み、当時、官憲に目を付けられる理由ともなっていた元の理に基づく教理について、当局から尋ねられたらどのように答えたら良いでしょうかと、具体的な事柄を挙げてお伺いなされました。これに対して、おやさまは、

「さあ/\月日がありてこの世界あり、世界ありてそれ/\あり、それ/\ありて身の内あ り、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。」

(おさしづ 明治20年1月13日)

と、噛んで含めるように、優しくお諭しになりました。

国の掟や法律を気にしているようだが、この世界も、国も、そこに暮らす人々も、すべては親神様のご存在とお働きあってこそ成り立っている。法律は人間が暮らし良いために定められているものだが、大切なのはそれを用いる人の心である。

そもそもの物事の成り立ちの順序からよく思案すれば、今、元なる親神様の思召に沿うべきか、法律に従うべきかは、自ずからわかるであろう。いかなる時も親神様のお心に添うように思案し、心を定めることが何より大切である。

物事の本質的順序を示され、神一条の理に沿う心定めさえできれば、あとは親神様がよきように働いてくださると仰せられたこのお言葉は、今を生きる私たちにとっても、しっかりと心に治めるべき大切なお言葉です。

今回のまとめ

プリントして学ぼう

参考年表

1798年
4月18日 教祖(中山みき)誕生

大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。

1810年
中山家にご入嫁

9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。

1838年
教祖「月日のやしろ」に定まる(立教)

10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。

1840年
「貧に落ち切れ」の神命により、家財道具などを施される

親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。

1853年
善兵衞様のお出直し・こかん様の神名流し・母屋の取り壊し

善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊しが行われる。

1854年
をびや許しの始め

11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。

1864年
つとめ場所の普請

本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。

1864年
大和神社のふし

棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。

1861~1865年頃
お屋敷へ通う人が増えてくる

不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てくる。

1866年
「あしきはらひ…」の歌と手振りをお教え頂く

この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。

1869年
おふでさき ご執筆

明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされる。

1869年
秀司様 ご結婚

明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる。

1872年
75日間の断食・別火別鍋を仰せ出される

断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される。

1872年
高山布教

政治権力を持ち、財力を持ち、身分地位の高い人々のことを「高山」と呼ばれ、高山布教が進められる。

1874年
赤衣を召される

12月26日に、初めて赤衣をお召しになられ、着物、足袋や草履の鼻緒に至るまで、すべて赤色のものを身に付けられました。

1875年
ぢば定め

6月29日(陰暦5月26日)、おやさまは、かんろだいの「ぢば」を初めて示されました。

1875年
こかん様のお出直し

おやさまの五女としてお生まれになったこかん様が、9月27日にお出直しになられる。

1877年
女鳴物の三曲を教えられる

おつとめの女鳴物となる、琴、三味線、胡弓をおやさま御自らお教えになる。

1880年
天輪王講社の開筵

官憲からの干渉圧迫を逃れるため、地福寺の出張所という扱いでお屋敷に「転輪王講社」が設置される。

1881年
秀司様のお出直し

おやさまのご長男としてお生まれになられた秀司様は、4月8日、お屋敷にてお出直しになる。

1880年
眞之亮がお屋敷へ移り住む

眞之亮様は、明治13年、15歳の年にご生家の梶本家を離れ、中山家の跡継ぎとしてお屋敷で常住なされるようになりました。

1880年
かんろ台の石普請が始まる

かんろだいの石普請が始まりましたが頓挫し、翌年、警察が二段までできていたかんろだいを没収しました。

1880年頃
「こふきを作れ」とお命じになられ

明治13・14年頃から、おやさまは、お側の人々に「こふきを作れ」とお命じになられる。

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