第36回「扉を開いて」

01. ろくぢに踏み出す

明治20(1889)年1月13日の眞之亮様とのやり取りの後、おやさまのお身上は幾分よくなられました。

1月18日(陰暦12月25日)の夜からは、毎夜おつとめが勤められ、人々は、連日寒中をいとわず水行し、真心を込めておやさまのご身上平癒へいゆをお祈り申し上げました。そうした人々の真実をお受け取り下されてか、ご容態も落ち着かれ、穏やかな日々をお過ごしになりました。

陰暦の元旦にあたる1月24日にはご気分も大層宜しく、新年のご挨拶に来た人々に対し、おやさまより「立教以来、よく十分に練り合ってくれた。皆の心も十分に受け取っているで。」とのねぎらいのお言葉がありました。また、その後も、2月13日頃にはお庭を元気に歩かれるなど、次第に快方に向かっておられるご様子で、人々も大いに安心されていたのではないかと思います。

しかし、2月17日(陰暦正月25日)の夜になって、またもやおやさまのご容態がお悪くなられました。そこで、飯降伊蔵先生を通じて親神様の思召をお伺いすると、次のようなおさしづがありました。

「さあ/\すっきりろくぢに踏み均らすで。さあ/\扉を開いて/\、一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあ/\扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうか/\。」

「ろくぢ」とは、大和地方の方言で、平らな地面のことを意味します。

すっきりと平らな地にならすのに、扉を開いて地をならすか、扉を閉めて地をならすか、との突然のお問いかけです。

人々は、その意図を十分掴み切れぬまま、扉を開いた方が陽気でよかろうと、「扉を開いてろくぢにならしくだされたい。」と答えました。すると、その答えが親神様のご真意に沿うたのか、飯降先生の伺の扇がさっと開き、「…一列に扉を開く/\/\/\、ころりと変わるで。」とお言葉がありました。

02. 明治20年陰暦正月26日

明けて、2月18日は、陰暦正月26日に当たります。

陰暦の26日は、以前から毎月おつとめを勤めてきた日です。この日におつとめを勤めることの大切さは、先だってからのお仕込みもあり、人々も重々承知していましたが、それでも尚、おやさまのお身上をおもんばかり、早朝、おやさまにお伺いなされました。

すると、「それについては、もう前々から繰り返し諭してきた通りである。今という時に至っては、もう尋ねているような時ではない。」という意味のお言葉がありました。さらに、正午ごろになって、おやさまのお身上が急変なされます。

この差し迫った状況に、一同の心もまったく定まり、ついに眞之亮様より「もし警察よりいかなる干渉があっても、命捨ててもという心の者のみ、おつとめせよ。」とのお声が掛かりました。

お屋敷では、慌ただしくおつとめの準備がなされます。つとめ人衆の面々は、いつ拘引されても良いようにと下着や足袋を重ねて身に付けました。

真之亮様は、村の総代を務めていた隣家を訪ね、もし自分たちが拘引されれば後の事をよろしくお願いしたいと依頼され、また、お屋敷でも3名の者が家事取締り役となり、万一の事態に備えられました。

こうして、非常なる覚悟のもと、午後一時頃より、ぢば・かんろだいを囲み、鳴物を入れてのかぐら・てをどりが始まりました。

おつとめに加わったのは、眞之亮様をはじめ16名。鳴物は、琴、三味線、小鼓のみです。手は揃いきっていませんが、固く心の定まった一同により勇んで勤められました。

この日の参拝者は、数千にも及んだと言われます。お屋敷は人で溢れ、かんろだい近くの竹の結界が細々に割れてしまうほどでした。それだけの人が集まったにも関わらず、不思議なことに、この日は最後まで一人の巡査もやって来ませんでした。まさに、これこそ奇跡としか言いようのない出来事でありました。

おやさまは、御休息所でおやすみになりながら、おつとめの陽気な鳴物の音を満足げにお聞きになっておられました。

そして、ちょうど十二下りの終わるころ、少し変わったそぶりをなされたので、お付きのおひささんがお水を差し上げると、三口召し上がりました。続いて、おひささんが「おばあさま」と呼びかけられましたが、もう何ともご返事がありません。

おやさまは、北枕西向きで、片方の手をおひささんの胸に当て、もう一方をご自分の胸にのせ、そのまますやすやと眠るように現身をお隠しになられました。

明治20年2月18日、陰暦正月26日の午後2時頃。御年90歳であられました。

現身を隠されるまでの49日間

1月1日(陰暦12月8日)【第34回】
  • おやさま、夕方、入浴後よろめかれる。
  • 「これは、世界の動くしるしや」とのお言葉。
1月4日
  • おやさまのご容態が急変。息をせられなくなる。
  • 親神様より厳しいおさしづ。
  • 警察を恐れておつとめをしてこなかったことを深く反省。
  • 夜中に門を閉めてひそかにおつとめ開始。
1月8日
  • 「世界並み二分、神様の事八分」など、心を定める相談が行われる。
1月9日
  • おやさまの容態が少し回復。
1月10日
  • おやさまのご気分がふたたび悪化。
  • 親神様より「もう言うべきことは言った。それぞれの心にて悟りとれ」とのお言葉。
1月13日
  • 眞之亮様が猶予を願い、おやさまに直接お伺い。
  • おやさまは「抜き差しならぬ。今すぐ心定めておつとめせよ」と強く諭される。
  • 「月日がありてこの世界あり…心定めが第一」と本質的順序を示される。
  • 眞之亮様とのやり取りの後、おやさまのお身上は幾分よくなられる。
1月18日(陰暦12月25日)【第36回】
  • 毎夜おつとめが勤められる。寒中に水行し、おやさまの平癒を祈願。
  • おやさまのご容態も落ち着かれ、穏やかな日々をお過ごしになる。
1月24日(陰暦元旦)
  • おやさまの気分大変良く、「立教以来、よく十分に練り合ってくれた。皆の心も十分に受け取っているで。」とお言葉。
2月13日
  • おやさま、お庭を歩かれるほど快方に向かっておられるご様子
2月17日夜(陰暦正月25日)
  • おやさまのご容態がふたたび悪くなられる。
  • 親神様より「扉を開くか閉めるか、どちらで地を均らすか」とのお言葉。
  • 人々が「扉を開いて」と答えると「一列に扉を開く、ころりと変わるで」と示される。
2月18日(陰暦正月26日)
  • おやさまのお身上が急変。
  • 「今さら尋ねることではない」とのお言葉を受け、人々の心が定まる。
  • 眞之亮様が「命捨ててもという心の者のみ、おつとめせよ」と呼びかける。
  • 午後1時頃、かぐら・てをどりを勇んで勤める(鳴物:琴・三味線・小鼓)。
  • 数千人が参拝する中、巡査は誰一人来ず。
  • 十二下りが終わる頃、おやさまは現身をお隠しになる。
  • 明治20年2月18日(陰暦正月26日)午後2時頃、御年90歳。

今回のまとめ

プリントして学ぼう

参考年表

1798年
4月18日 教祖(中山みき)誕生

大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。

1810年
中山家にご入嫁

9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。

1838年
教祖「月日のやしろ」に定まる(立教)

10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。

1840年
「貧に落ち切れ」の神命により、家財道具などを施される

親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。

1853年
善兵衞様のお出直し・こかん様の神名流し・母屋の取り壊し

善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊しが行われる。

1854年
をびや許しの始め

11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。

1864年
つとめ場所の普請

本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。

1864年
大和神社のふし

棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。

1861~1865年頃
お屋敷へ通う人が増えてくる

不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てくる。

1866年
「あしきはらひ…」の歌と手振りをお教え頂く

この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。

1869年
おふでさき ご執筆

明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされる。

1869年
秀司様 ご結婚

明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる。

1872年
75日間の断食・別火別鍋を仰せ出される

断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される。

1872年
高山布教

政治権力を持ち、財力を持ち、身分地位の高い人々のことを「高山」と呼ばれ、高山布教が進められる。

1874年
赤衣を召される

12月26日に、初めて赤衣をお召しになられ、着物、足袋や草履の鼻緒に至るまで、すべて赤色のものを身に付けられました。

1875年
ぢば定め

6月29日(陰暦5月26日)、おやさまは、かんろだいの「ぢば」を初めて示されました。

1875年
こかん様のお出直し

おやさまの五女としてお生まれになったこかん様が、9月27日にお出直しになられる。

1877年
女鳴物の三曲を教えられる

おつとめの女鳴物となる、琴、三味線、胡弓をおやさま御自らお教えになる。

1880年
天輪王講社の開筵

官憲からの干渉圧迫を逃れるため、地福寺の出張所という扱いでお屋敷に「転輪王講社」が設置される。

1881年
秀司様のお出直し

おやさまのご長男としてお生まれになられた秀司様は、4月8日、お屋敷にてお出直しになる。

1880年
眞之亮がお屋敷へ移り住む

眞之亮様は、明治13年、15歳の年にご生家の梶本家を離れ、中山家の跡継ぎとしてお屋敷で常住なされるようになりました。

1881年
かんろ台の石普請が始まる

かんろだいの石普請が始まりましたが頓挫し、翌年、警察が二段までできていたかんろだいを没収しました。

1880年頃
「こふきを作れ」とお命じになられ

明治13・14年頃から、おやさまは、お側の人々に「こふきを作れ」とお命じになられる。

1882年
度重なるふし

かんろだい建設の頓挫、蒸風呂・宿屋廃業、転輪王講社の解消など、さまざまな出来事が次から次へと現れました。

1874年〜1886年
17・8度の御苦労

明治7(1874)年から19(1886)年にかけて17、8度、警察署や監獄署に御苦労くださる。

1884年
教会設置運動

眞之亮を中心として、教会創立事務所の看板をかけて、積極的な活動を始める。

1886年
最後の御苦労

三十年来の寒さの中、おやさまは15日間にわたり櫟本分署に留置される。

1887年
49日間、最後のお仕込み

「つとめせよ」と仰る教祖とおつとめをためらう初代真柱様はじめ先人の先生方との問答

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