01.飯降伊蔵さんの入信
をびや許しを道あけとして、おやさまの教えが少しずつ広がり、お話を熱心に聞く人が現れはじめたのは、立教から約25年後となる文久、元治の頃からでした。まさに、親神様が「二十年三十年経ったなれば、皆の者成程と思う日が来る程に。」と仰せられた、その年月が経とうとする頃です。
立教から27年目の元治元(1864)年5月。一人の男性が導かれるようにしてお屋敷にやってきました。その人の名は飯降伊蔵といいます。のちに、おやさまが現身をお隠しになったあと、「本席」という立場になられ、おやさまに代わって親神様のお言葉を伝え、さづけの理を渡す役割を担われた方です。
この時、伊蔵さんは、妻が流産をして寝込んでしまっていたところ、庄屋敷村にお産の神様がおられることを人づてに聞いて、お屋敷へやって来られたのです。
おやさまは、
「さあ/\、待っていた、待っていた。」
「救けてやろ。救けてやるけれども、天理王命と言う神は、初めての事なれば、誠にする事むつかしかろ。」
と仰せになり、こかん様を通じて、三日の願をかけて、散薬を与えられました。散薬とは、当時おやさまがお渡しになっておられた御供のことです。※1
伊蔵さんは、さっそく妻にこの出来事を話し、夫婦で心を揃え、教えられた通りに腹帯を外し、散薬を頂いたところ、少し気分が良くなりました。そこで、翌日の早朝、伊蔵さんはさっそくお屋敷にお礼に来られました。応対されたこかん様から、「神様は、救けてやろ、と仰しやるにつき、案じてはいかん。」と教えられ、さらに散薬をもらい妻に頂かせると、夕方にはずいぶん楽になりましたので、伊蔵さんは、またその夜にお屋敷へお礼に行きました。
そして、三日目には、物にもたれて自分で食事ができるほどまでになり、数日後にはすっきりとご守護いただいたのです。
伊蔵さんは、もともと「千軒切っての正直者」といわれるような方でしたが、この入信の時の様子にも、それがよく伝わってきます。
初めてお屋敷に来られたにも関わらず、おやさまの言われるままに、素直に信じてもたれ切る姿勢、少しの兆しもご守護だと感じる感性、そしてすぐにお礼をと、その都度身を運ぶ態度は、私たち信仰者のお手本にすべきものであると思います。
02.つとめ場所の普請
こうして、妻の身上をたすけていただいた伊蔵さんは、どうすればご恩返しができるだろうかと夫婦で相談する中に、お社を作って、それをお供えしてはどうだろうかと思いつかれました。
そのことをさっそくおやさまに申し出ると、おやさまは、
「社はいらぬ。小さいものでも建てかけ。」
「一坪四方のもの建てるのやで。一坪四方のもの建家ではない。」
「つぎ足しは心次第。」
と、仰せられました。
「社」とは、通常、その中に神様をお祀りするための場所のことですが、この時おやさまが仰せられたのは、「社」ではなく「小さいもの」を建てるようにとのご指示でした。その大きさは、一坪四方(畳二畳分)で良いとのことです。それは、月日のやしろたるおやさまがおいでになられる場所であり、これを芯として、それ以上はどのような広さになってもよい、皆の相談に任せる、との仰せでした(このお言葉の解釈には諸説あります)。
一同で相談をし、結果的に、一坪四方に継ぎ足す形で、三間半に六間(8畳と6畳の部屋が各3室)という広さの建物が建てられました。のちに「つとめ場所」と呼ばれる建物です。
伊蔵さんが、何かご恩返しをしたいと発案されたのをきっかけに、我も我もと賛同の声が上がり、有志の信者たちで材料や費用、手間を出し合い、教祖のお指図に基づいて、一同のひのきしんによって普請が進められていきました。これが、お道の普請の原型です。
このつとめ場所は、完成後、約10年間おやさまがおいでになり、また、信者の参拝所、寄合所、おつとめの稽古場などとして使われるとともに、おやさまが現身をお隠しになられてからは、本教最初の神殿として、改築され長く使用されることになります。
現在も、記念建物として、教祖殿の北側に保存されています。
粉ぐすりのこと。この散薬には、 「はったい粉(麦こがし)」が用いられていたといわれる。「はったい粉」とは、乾煎りした大麦やハダカムギを、挽いて粉にしたもの。
御供の変遷をみると、はったい粉から、 明治11年(1878)頃には金米糖にかわり、明治37年(1904)には洗米になり現在に至っている。
今回のまとめ
プリントして学ぼう
参考年表
大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。
9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。
10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。
親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。
善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊し。ここから約10年間は、中山家にとって最も苦しい貧のどん底の期間にあたる。
11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。
本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。
棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。
不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てきました。
この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。
明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされました。
明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる
断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される