第3回「おやさまの魂」

01. はじめに

現在、地球上には約80億人の人間がいると言われます。

おやさまが月日のやしろとなられたのは、天保9(1838)年です。その頃、西暦1800年頃の世界人口は、10億人ほどだったそうです。

今と比べればずいぶん少ないように感じますが、それでも、とても多くの人が世界中で暮らしていました。

そんな中で、親神様が入り込まれ、月日のやしろとなられたのは、おやさまお一人です。

どうして、おやさまが月日のやしろに定まられることになったのでしょうか。

そこには、深い深い理由があります。

この世の元はじまりに由来する、計り知れないほど深遠なる親神様の思召が込められていたのです。

02. この世の元はじまり

この世がまだ何もない混沌としたどろ海であった頃、月日親神様はその様子をご覧になって、「これでは何の楽しみもないから、人間をこしらえ、さらには世界を創り、その人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しもう」と思いつかれました。

そうして月日様がどろ海の中を見回されると、たくさんの「どじょう」がいる中に「うを」と「み」とを発見されます。この者たちの顔や肌は、お創りになろうと思っている人間のそれであり、さらには真っすぐで正直な心を持っていました。

そこで、月日様はこの「うを」と「み」を引き寄せられて、人間をこしらえるにあたっての夫婦の雛型として貰い受けたいと申し出られ、「最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせよう」との約束のもと、承知をさせて貰い受けられました。

それから他にもさまざまな道具となる者を引き寄せられ、承知をさせて、月日様が食べられた上でその特性に見合った道具として貰い受けられていきました。

そして、「うを」には「男一の道具」を、「み」には「女一の道具」を仕込み、それぞれ「いざなぎのみこと」と「いざなみのみこと」との神名を授け、男と女の雛型となされました。

いよいよ人間をこしらえる準備が整ったところで、月日様はどろ海の中にたくさんいた「どじょう」をすべて食べられ、その心根を味わった上で、これを人間の「たね」となさいました。そうして、「いざなぎのみこと」と「いざなみのみこと」の体内に、それぞれ月様と日様が入り込まれて、人間の一番初めの宿し込みがなされたのです。

やがて、「いざなみのみこと」のお腹から最初の人間が生み出されます。それは、わずか五分(1.5㎝ほど)の大きさでした。しかし、親神様のご守護の中で、それから人間は途方もない時間をかけて少しずつ成長し、何度も何度も数えきれないほどの生まれ更わりを繰り返して、今の姿に成人させていただいたのです。また、その人間の成人に合わせて、世界の姿も人間が暮らしやすいようにだんだんと整えられていきました。

Happist MEMO

元初まりの話

03. 母親なる「いざなみのみこと」の魂

こうして元の元をたどれば、人間は、最初に「いざなみのみこと」のお腹に宿り、そこから生まれてきた。つまり、元初りにおいて人間の母親の役割をなしくだされたのが「いざなみのみこと」であることに行き着きます。

その「いざなみのみこと」の魂をもってお生まれになったのが、中山みき様なのです。

おやさまが、紛れもない全人類の「親様」であるというのは、そうした理由でもあったのです。

だからこそ、おやさまは、どこの国の人間も、どんな人間もたすけてやりたい、可愛いばかりのお心で、いつもいてくださっているのです。

こうして、親神様の世界たすけの深い思召のもと、おやさまは元はじまりの母親の魂をもってこの世にお生まれになられました。そして、その魂の通り、ご幼少の頃から、とてもやさしく、人をたすけ、人を喜ばすことをご自身の何よりの楽しみとなさるような方としてお育ちになったのです。

次回からは、おやさまについて、そのお生まれから順に学んでいきましょう。

今回のまとめ

プリントして学ぼう

参考年表

1798年
4月18日 教祖(中山みき)誕生

大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。

1810年
中山家にご入嫁

9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。

1838年
教祖「月日のやしろ」に定まる(立教)

10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。

1840年
「貧に落ち切れ」の神命により、家財道具などを施される

親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。

1853年
善兵衞様のお出直し・こかん様の神名流し・母屋の取り壊し

善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊し。ここから約10年間は、中山家にとって最も苦しい貧のどん底の期間にあたる。

1854年
をびや許しの始め

11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。

1864年
つとめ場所の普請

本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。

1864年
大和神社のふし

棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。

1861~1865年頃
お屋敷へ通う人が増えてくる

不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てきました。

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