01.いんねん寄せて守護をする
おふでさきのご執筆を開始された明治2(1869)年、おやさまのご長男で、当時中山家の戸主となられていた秀司様がご結婚なされました。お相手は小東まつゑ様と仰います。
このご縁談には、親神様の深い思惑がありました。
当時、秀司様は既に49歳で、内縁関係にあった女性もおられました。けれども、おやさまは、この女性をお屋敷から出され、当時19歳のまつゑ様を、自ら出向いて秀司様の妻として迎えられたのです。
このことは、常識で考えれば理解しがたいなされようで、秀司様、まつゑ様ご当人も、さぞ困惑されたのではないでしょうか。けれどもこの縁談は、どうでも進めなければならない理由があったのです。そのことを、おふでさき第一号において、次のように述べられます。
これからハせかいの人ハをかしがる なんぼハろてもこれが大一 (一 71)
せかいにハなに事するとゆうであろ 人のハらいを神がたのしむ (一 72)
めへゝのをもふ心ハいかんでな 神の心ハみなちがうでな (一 73)
せんしよのいんねんよせてしうごふする これハまつだいしかとをさまる (一 74)
周囲の人や当人が、人間心からどれだけおかしいと思っても、親神は全く違う考えによって導いている。この縁談は、前生のいんねんある者同士をもって夫婦となすのであり、これによって末代治まるのである、との仰せです。
ここでの「前生のいんねん」とは、元初まりの道具衆としての魂のいんねんであり、秀司様は月よみのみこと、まつゑ様はたいしょく天のみことの魂をお持ちのお方であると伝えられます(こふき和歌体十四年本)。
おやさまは、世界一れつのたすけを進める上で、元初まりの道具衆の魂のいんねんある人々を寄せることをお急き込みになりました。おやさまは、まつゑ様にこの魂のいんねんを説き聞かせ、よく納得させられた上で、中山家の人として迎い入れられたのです。
この「前生のいんねん寄せて守護をする」とのお言葉は、秀司様とまつゑ様のご縁談に関してのお言葉ですが、一般の縁談についてはどうなのでしょうか。
例えば、おさしづに、
あれとこれと心寄り合うがいんねん、いんねんなら両方から寄り合うてこうと言う。いんねんがありゃこそ、これまで縁談一條皆治まって居る。
(明治27年9月21日)
縁談一つ、心と/\縁繋ぐ事情、心と心繋いだら生涯と言う。
(明治28年6月24日)
などとあるように、私たちも夫婦となるのは、何かしらのいんねんのある者同士が結ばれると悟れます。
02.夫婦の理合い
さて、お道の教えの上で、夫婦はとても重要な間柄として教えられます。
翌、明治3年にお教え下さった「ちょとはなし」に、
このよのぢいとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな
これハこのよのはじめだし
とあるように、「天」は月様、「ぢい(地)」は日様の理で、夫婦は、この天地抱き合わせの理を象ったものであると教えられます。
元初まりにおいて、親神様はまず「うを」と「み」を見出し、それを夫婦の雛型として貰い受けられました。続いて「しゃち」と「かめ」を引き寄せ、それらを「うを」と「み」に仕込み、男女の雛型と定められました。そして、「うを」にはいざなぎのみこと、「み」にはいざなみのみこととの神名を授けられ、月様はいざなぎのみことの体内に、日様はいざなみのみことの体内に入込んで、人間創造の守護を教え、そうして人間をお創りくださいました。
ふうふそろうてひのきしん これがだいゝちものだねや
(十一下り目 二ツ)
とも教えられる通り、いんねんあって結ばれた二人が、それぞれの徳分や役割をしっかりと理解し、親神様のお心に添い、心を寄せ合って一手一つに歩む、その誓いと努力が肝心で、そこから陽気ぐらしは生まれていくのだと思います。
そうしたことも踏まえれば、秀司様のご結婚は、元のやしきたる中山家に、陽気ぐらしへと向かうたすけ一条の土台を固めるという、とても重大な事柄であったといえるでしょう。
今回のまとめ
プリントして学ぼう
参考年表
大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。
9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。
10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。
親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。
善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊し。ここから約10年間は、中山家にとって最も苦しい貧のどん底の期間にあたる。
11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。
本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。
棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。
不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てきました。
この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。
明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされました。
明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる
断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される