01.激変する社会
明治の初年、政府は、神道による国民教化を図るため、さまざまな宗教政策を徹底して進めました。
神社が国家の宗祀であると宣言された一方、仏教については国家と分離する方策が取られ、全国各地の寺において強引な破壊行為がなされる動きに発展しました(※廃仏毀釈)。この影響で、奈良の興福寺では、五重塔は辛うじて残ったものの、その他の建物や領地の大半を失い、西の日光と称された内山永久寺(天理市杣之内町)は廃寺となりました。
また、国民教化を推進するにあたっては、神職や僧侶たちが教導職という立場に任ぜられ、国の方針に沿った説教活動を活発に行いました。この説教活動は、大教宣布運動と呼ばれ、明治6年には秀司様が村の責任者(戸長)を務められていた庄屋敷村でも行われました。
こうした状況に対し、おやさまは、おふでさき第三号に次のように述べられます。
高山のせきゝよきいてしんしつの 神のはなしをきいてしやんせ (三 148)
にち/\に神のはなしをたん/\と きいてたのしめこふきなるぞや (三 149)
「高山」とは、社会的支配層を指して仰っておられる表現です。その支配層の意を受けて行われる説教と、おやさまの説かれる真実の親神の話を聞き比べてよく思案してみよ。おやさまのお話の真実性は明白である。その上で、日々親神の話を聞いて楽しめ、この話こそ「こふき」、つまりたすけ一条の台となるものである、との仰せです。
廃仏毀釈とは
廃仏毀釈とは、仏教を廃すること。「廃仏」は仏法を廃し、「毀釈」は釈迦の教えを棄却するという意味。
02.再び、大和神社のふし
こうした国民教化運動が活発に展開される中、明治7(1874)年陰暦10月のある日、おやさまは、仲田儀三郎、松尾市兵衛の両名に対し、「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで。」と指示されます。
当時の大和神社は、官幣大社といって、全国の神社の中でも特に格の高い神社の一つとして位置づけられていました。
しかし、大和神社の神職は、仲田、松尾両名の問いに、神社の由来は述べられても具体的にどのような御守護を下さる神様かははっきりと答えられません。
一方、二人は持参したおふでさき第三号、第四号を出して、親神様のご守護について日頃教えられる通り述べました。例えば、このおふでさき第三号には、
このよふのにんけんはじめもとの神 たれもしりたるものハあるまい (三 15)
いまゝでにない事はじめかけるのわ もとこしらゑた神であるから (三 18)
と、親神様こそこの世人間を創められた根源の神であることが述べられています。
また、第四号には、
このよふを初た神の事ならば せかい一れつみなわがこなり (四 62)
いちれつのこともがかハいそれゆへに いろ/\心つくしきるなり (四 63)
と、その親神と人間の関係は、まさに親と子であり、親神は子供である人間がかわいいゆえにどうにかしてたすけてやりたいのだと、明確にその目的が示されています。
この外にも、第三、四号には、教えの根幹である「かしもの・かりもの」、「かんろだい」と「つとめ」、さらには「から」「にほん」といった表現を用いつつ、順序を踏まえてこの道を伝え弘めていくことを親神様が急き込んでおられる様子が、つぶさに記されています。
しかし、神職等が親神様の深い思召を理解するべくもなく、かえって日本神話にない神名を語るとは不都合千万と怒らせることになりました。
03.学問に無い、古い九億九万六千年間のこと、世界へ教えたい
その翌日には、今度は石上神宮から5人の神職がお屋敷へやってきます。
おやさまは、この者たちにお会いになり、直接親神様のご守護について説き諭されました。その上で、「それが本当なら学問は嘘か」と問う相手に対し、
学問に無い、古い九億九万六千年間のこと、世界へ教えたい。
と仰せられました。
おやさまがお説きくださる親神様の教えは、人間の元初まりに根差す教えであり、元の親・真実の親でなければ知り得ない事柄です。
それを世界中の人間に教え、たすけ上げたいとの壮大な思召です。人間の考えとおやさまのお話は、まったく次元が違うのです。
今回のまとめ
プリントして学ぼう
参考年表
大和国山辺郡西三昧田(現・天理市三昧田町)に前川半七・きぬの長女として生まれる。
9月15日、教祖(13歳)、庄屋敷村 中山善兵衛(23歳)に嫁ぎ、中山家の人となる。
10月26日(陽暦12月12日)朝五ッ刻(午前8時)、立教。教祖「月日のやしろ」に定まる。その後、約3年内蔵にこもられる。
親神様の思召のままに、ご自身の持ち物だけでなく、食べ物、着物、金銭など、次々と困っている人々に施していかれる。
善兵衞様のお出直し(66歳)、末娘のこかん様が大阪へ神名流し、また母屋の取り壊し。ここから約10年間は、中山家にとって最も苦しい貧のどん底の期間にあたる。
11月、三女・おはる様の妊娠、出産を機に、安産の許しである「をびや許し」を出されるようになる。
本席 飯降伊蔵が入信し、妻の身上を救けていただいたお礼につとめ場所の普請が始まる。
棟上げ直後に予期せぬ「大和神社のふし」が起き、日の浅い信者は、おやしきへの足が止まってしまう。
不思議なたすけを頂いた人々が増えゆくにつれて、おやさまの教えをさらに詳しく聞こうと、お屋敷へ足繁く通う人も出てきました。
この年から時旬や人々の成人に応じて、順を追っておつとめの歌と手振りをお教え頂く。
明治2(1869)年から明治15(1882)年、おやさまは親神様の思召のままに、おふでさきをご執筆なされました。
明治2(1869)年、おやさまのご長男 秀司様がご結婚なされる
断食や別火別鍋とを通じて、おやさまは月日のやしろであられるとの理を示される